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六.歌詞を作る 

 

 この書物は私を水俣病に釘付けにした。患者たちの苦悶や貧困との戦い、そして水俣病で死んでいく人々の記録と言った方がいい石牟礼道子氏の記述。かって代用教員として教壇に立ち国のためだと生徒に教えた戦争のことが、敗戦と同時に過ちであると気がついた。その責務から再び教壇に立つことを避けて過ごした石牟礼道子氏の述べる言葉には、ひたすら誠意と不屈の忍耐力が溢れ出ていた。それでいて最後まで自分の力のなさを嘆き悔しがる言葉が私の魂を捉えたのかもしれない。

 

 読んでいて私は涙が出てしょうがなかった。石牟礼道子氏の一途な気持ちと行動に頭が下がり、私自身の無関心というべき水俣病との関わりに恥ずかしい思いをしたと言った方が本当だ。前にも書いたが、この誤りだらけの世の中で精一杯正しいことを試してみたい。私自身十分な行動を取れたとは思っていなかったが、少なからず良心がある行為をしてきたと自負していたその思い上がりを微塵に砕かれた感が長い間続いた。後に石牟礼道子氏に構成詩を作り文化祭や音楽祭典で発表することを報告し、組曲の楽譜を同封して手紙を書いた。何とか少しばかり自分が立ち直れたように思えた。

 他の資料を読みながら歌詞にできそうな言葉を用紙に書き出した。「苦海浄土」を読みながら歌詞になりそうな文章を全て拾い出した。野球好きの山中九平少年の話、かって澄み渡っていた不知火の海の景色、村時計の豪傑じいさん仙助老人、九竜権現様に見捨てられた杢木太郎少年の人生。

 

 そして十年目にしてやっと謝りに来た水俣チッソ会社の伊藤社長の頭上に吐き捨てた患者のじいさんの言葉。こんなことを「苦海浄土」が全て私にいきいきと語りかけてくれた。

 石牟礼道子氏はこの「苦海浄土」が初本だという。出版にあたっての苦労なども記されていたが、全く無

名に等しい人間が自分の意見さえ多くの人々に知らせることの難しさを教えられた。と言っても本を出したことのない私なんかには、出版の難しさなど本当に理解できないものであった。

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