一.市内合唱団
昭和四十六年一月七日(木曜日)定期練習日である。歌の仲間が十名、今年の九州総合文化祭に発表する市内合唱団の出し物を検討すべく、わずか二坪程の会議室に集まってきた。毎週木曜日にその日の仕事を終えて午後五時半、九州通信局会議室で私たちは歌の練習を始めるのである。
この集まりを全電通熊本県支部市内合唱団と言った。熊本市内にある分会で、主に若い青年婦人の親睦と融和を図るため設けられたものだが、昭和四十二年年暮れに発足して以来、九州地方や熊本県文化祭典の直前を除いては、十名以下の仲間の集まりが長年続いていた。
かって数名に仲間が減り存続を討議した結果、どんなに少なくなっても地道に活動を続けていこうと意識を統一してやってきただけに、現在の常連である西
岡・岩本・加来・橋口の四名は、任された責任者の一員と言うことで、顔には出さないけれども内に秘めている思いは確かなものがあった。
なかでも西岡は初代団長・二代団長の二期を苦しい状況のもとで活動を続けてきただけに、並々ならぬ意欲を秘めているようだった。
市内合唱団は次のようにして生まれた。昭和四十二年暮に熊本で停滞というよりも寧ろ何の活動もなされない熊本市内の各分会のサークル活動(主に労働歌を取り上げて歌っていた)を広げるために、現在地方本部執行委員の西村広義氏の提唱により、当時熊本混成合唱団の指揮者である大島先生を講師に迎えて、白川中学校にて発足したのである。
当初は五十名にものぼる参加者を得て堂々と発足したものの、講師の謝礼に参加者一人たり月に百円徴収することに心をすすまない仲間が去っていったと聞く。全く自主性の無さには残念と言うしか仕方が無い。しかしこの現実が、これからの市内合唱団は言うに及ばず全ての労働組合活動において、そして資本階級と対峙する労働者階級としての学習にも影響しているのである。
やがて参加者が急減し講師謝礼の目途が立たたず、熊本県支部から援助を受けるようになってしまった。私はこのような時に市内合唱団に加入した。私の目的は歌を習うことではなく、音楽の専門家である大島先生から楽典などの知識を得るべく参加したのだった。
私が参加するようになってから半年程経った時にはもう 常連は西岡・堺・高岡(現境)・飯倉・内田の五名に、私を加えた程度になってしまっていた。
私たちは講師を招くには余りにも生徒の私たちがお粗末なのを恥じると同時に、資金繰りの困難が原因で大島先生の指導を断ることになってしまった。
講師のいない練習に最も大切なことは指導者だ。アコーディオンを演奏する者はおらず、オルガンを演奏する者もおらず、私たちの集まりは解散寸前だった。
やっと買ってもらった中古の小形オルガンのために団長である西岡氏が、部外の人をわざわざ私たちの練習のために招いたりした。でもその人も来られないようになり、社内のブラスバンドで楽器を演奏していた経験のある私が、一番楽器に身近な人間だということでオルガンを担当することになった。
しかしオルガンを私は今までに遊びにでも上手く弾いたことがなく、全然自信などありはしなかった。しかし集まってくる仲間の中で誰かがやらなければならないと考えると、私をおいて他にないと自分に言い聞かせながら、その役目を引き受けたのだった。
こんな状態で練習は続けたが、やはり九州総合文化祭典直前を除けば三々五々の集まりであった。私はもっとオルガンを上手く弾けるようになりたいと考えた。オルガンはあるのだから教祖本をなんとか手に入れれば我流でも少しは様になりそうだ。これが素人の私の考えだった。たまたま同じ職場で子供にピアノを習わしている人がいた。その人に頼んで、オルガン練習に使えそうなピアノ稽古本を借りて殆ど毎日練習した。
時間こそ短かったが土曜日などは三時間ほど会議室
でひとり練習したし、日曜日は独身寮の近所の家で、
オルガンを持っている人に頼んで弾かせてもらった。
オルガンを自分で持っていないのが練習の最大の障害であった。だからヤマハのエレクトーン教室入門コースに通った。というのは教室に席をおいていれば、毎日無料でエレクトーンの練習をすることを許可されていたからだ。幸いにも職場から五分程の近くの教室だったので、昼休みの一時間を毎日のように通って練習した。時間の経つのを忘れて一時間を過ぎることが何度もあった。
私のエレクトーン教室の入門クラスは六名編成だった。仲間の中で私は最下位の技量ではないと思ったが、先生が単音を数回出してそれを受講生が言い当てるのは苦手だった。独身寮の部屋でテープレコーダーにギターの音を入れて当てる練習をしてみたが殆ど効果はなかった。改めて音に対する耳の訓練の大切さを思いしらされた。
昭和四十四年に岩本が団長になった。なったというより私たちが頼んで無理矢理に引き受けてもらったと言うのが本当だ。二期務めてくれた西岡氏に代わり、実は私が団長を引き受けるところだったが、私は九州通信局青年会議の事務局長をしていたため、団長の責任を果たすことができそうにもなかったので、代わってもらったと言うのが本当の話である。
西岡団長の頃は大島先生から所謂る一般のコーラス曲を習っていたようだが、実際に参加者が多くなる文化祭典直前になると、私たちは労働歌ばかり練習していたし、また労働歌の研究というか、労働歌の意義を知り認識を高めるためにも労働歌を練習していた。
多くの仲間は労働歌だから面白くないという。労働歌についての理解の仕方が不明なので評価が下がっているのだと思っている。まず参加者を増やすためにフォークやヒットソングや歌謡曲をも歌った。
でもやはり 集まりは同じだった。