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集まらないなら集まるところへ

 

 以上のような経緯を経て、四代目団長の役が私に回ってきた。昭和四十五年十月のことである。当時私が所属している職場の労働組合の部会には、分会執行委員のなり手がなく人選に苦しんでいた。人選難の結果執行委員の選出を諦めるという部会執行部の提案に私は疑問を感じずにはいられなかった。というのは適任者が見つからないからと言って、これから多くの問題を恐らく抱えるであろう新しい職場の事務近代化部門に執行委員がいないなどありえないと思えた。

 

 誰も役員のなり手がいないなら私が出ようと喉まで出かけたが私には言い出せなかった。私はその夜飯倉先輩の家に寄った。ひとつ年上である彼とは福岡時代からの付き合いであり、福岡ではあまり親しくなかったが、熊本に来てから彼が結婚するまで、独身寮の同じ部屋で寝食を共にした仲だった。

 両親を除けば私のことをよく知っているただ一人の先輩であった。彼に打ち明けた。彼は翌日部会執行部と話し合いをしてくれた。彼は九州地方の常任委員長でもあり、かって当部会の部会長を務め、九州通信局分会の書記長を務めた人である。彼は私の考えを受け止めてくれた。

 その結果他の人を執行委員として推薦し、私は市内合唱団の団長に専念することを約束したのだった。だから私は本腰を入れて市内合唱団の活動に取り込みたかった。

 

 私達は今までの練習方法に限界を感じていた。市内合唱団への参加を過去三年間仲間に呼びかけてきたのに、今の状態では今年も先が見えているように思えて仕方なかった。どんなに呼びかけが下手だったかしれない。しかし千名を超える熊本市内の労働組合員の中で集まってくるのは僅か十名足らず。この事実をもっと直視しなければならなかった。いろいろな催しをせよ、レクレーションをやれ、労働歌

ばかり歌うな、もっと朗らかに気軽に入れるようにせよ、などなど。いろいろな意見も聞いてきた。全て現在の市内合唱団に当てはまる言葉に相違なかった。

 だがよく考えてみて欲しい。そんなに雰囲気がないなら、あなたの提案であなたのアイディアを皆に提起し話し合おうではないか。そのような話が私たちの耳に入るのは、いつも他人を通してか酒の席であった。

 自分の金は出したくない。それでいてレクレーションや催しを計画せよ。いつも参加しないでいて労働歌ばかり歌うな。私に言わせれば、どれもこれもただの愚痴にしか受け取れなかった。本当に良くしようと思ってくれるなら人肌脱いで欲しい。

 

 県支部の常任委員会に市内合唱団についての対策を含めた今後の九州総合文化祭典や熊本県文化祭典に対する予備工作を要望したが、婦人常任委員会の承認を得ることができずに、話し合いをするために市内分会の青年婦人会議議長を集めることはできなかった。私は再度要請した。

 やっと 熊本県支部委員長名で第一回の熊本県文化祭典準備委員会が青年婦人会議議長を対象に開催された。私も出席した。そして次のことを提起した。各分会での会議やレクレーションに対して市内合唱団から参加するか、此方から出かけて行くオログ体制を作って欲しい。つまり市内合唱団に参加してもらえないので、こちらから出かけてピーアールしようということだ。

 しかし会議などを当日開催するから来てくれと言われても、まだまだ未熟な市内合唱団はオログ体制をとることができないので、せめて二日程前に知らせて欲しいという要望だった。

 会議では私の提案がすんなりと受け入れられたが、後日になって二分会から開催当日になって来てほしいとの要請を受け、こちらの体制が取れず断ったこと

は今でも残念でならない。

 一体私たちを何と考えているんだ。それでも電話局のレクレーションに岩本・加来の二名が出かけた。阿蘇で開催された青年行動隊訓練に加来・岩本・鎌倉の

三名が行った。今に私たちの力を見せる時はきっと来る。互いに励まし合って行動しようと話した。

 

 だがそれ以後の各分会からの要請は残念ながら無かった。従って練習も以前の常連の集まりになってしまった。参加呼びかけを行っても来てはくれなかった。私たちはまた討議した。十曲程度でいいから今の常連が歌をしっかり覚えて、こちらからオルグに入れようにしよう。そして各分会の都合のいい日を決めてもらって、数名でもいいからオルグに入ろう、これが結論だった。失敗は目に見えている。だがやってみよう。やってやれなければそれで元々、これが常連の隠すことの無い気持ちだった。

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