送受した手紙を読んだ感想
3番目の手紙は7日間かかって3月16日に到着した。フランスのサンボレク・ボグーショ氏(61才)からのもので、その後も文通を続けている。
日本では珍しいと思うのだが、地下炭坑の絵ハガキの裏には706メートルの地下で働いていたという添え書きがある。横長の白封筒には私の住所が癖のある字でデカデカと書かれていた。87年の6月に福岡市美術館で開催されたメールアート展「地球芸術郵便局展」に参加した私達エスペランチストのために、彼は素晴らしい切り絵を7枚送ってくれた。私の絵葉書収集広告に対し、3月から5月にかけて絵ハガキを送ってくれた相手に私は返事の中で、この展覧会への協力を頼んでいたのだ。
福岡市美術館で「地球芸術郵便局展」を開催する6月迄に22ヶ国70数名の手紙や絵ハガキを受け取ることに成功していた。集まった絵葉書を使用してこの年ポーランドのワルシャワで開催された第72回世界エスラント大会の日程にあわせた1987年8月はじめの一週間、私が住んでいる唐津市郵便局でエスペラント文通展を開催し、新聞にも大きく報道された。
ボグーショ氏から既に11回も手紙を受け取り私も返事を書いた。糖尿病で毎日注射を打っている膝は、梅雨時に痛むという。写真も交換し、毎回同封されてくる切り絵と絵ハガキのお礼に、私も絵ハガキを送った。広重や歌麿の版画美人のある名刺サイズの華麗なカレンダーを、宝くじ売り場でせしめて送ったところ、艶絵だと受け取ったのだろうか話が映画に及び、日本版のアダルト映画を若い者と昨日観てきたと書いてよこした。若者達にかなりの人気だという。フランスでも検閲が厳しいらしく、日本ではどうかと聞いてきたので、その筋に詳しい友人の助けでハード物は手に入らないと返事を出した。逆輪入されている日本の事情など知らないらしい。
18番目には、東ドイツのマンフレッド氏から珍しい絵ハガキが送られてきた。3月16日発の30日到着
なので15日間もかかっていた。確かに航空便なのだ。西ドイツからは5~6日で届くのに比べると10日間
の差がある。ドイツという国の東西の違いを感じた。
手紙は縦5センチ横10センチ位の小さな紙の表と裏に小文字のタイプ打ちでびっしりと書いてあった。
文字で埋まったこの紙の左下隅には、4人の子供達が野原で遊んでいる影絵がとても私は気に入った。
絵ハガキも10枚くらい束で交換しようという。君の絵ハガキのテーマは何かと闘いてきた。彼のテーマは洞窟・城・空の絵・地質学的な記念物などで、エス語で書かれたカードや郵便関係のものなら何でも集めているという。使用済みの記念切手を送ってくれ、未使用切手はいらないという。封筒には色々な切手を貼ってくれとある。
まとめて絵ハガキが手に入りそうなので、すぐに返事を書いた。だが切手や絵ハガキなど集めたことなど全くない私は収集テーマを持つことさえ知らなかった。私はエス語を子洪達に広めたいと考えているから、テーマは特にないが出来れぱ子供が喜ぶ絵バガキを送ってくれと頼んだ。
エスペランチストの老齢化現象は世界の国々でも日本と同じようである。1887年エス語が世に出てから、次第に使用する人の数も増えてきた。しかし二度にわたる世界大戦中、外国の人と自由に意見を交わす危険な言葉だと、軍事政権下ではどこの国でも厳しい弾圧と迫害を受けた。
ユダヤ人の血が流れているザメンホフ博士の身内にはナチス政権に殺害された人もいる。
日本では厳しい憲兵の追及を恐れてエス学習を断念し、学習書や書籍や辞書までも焼却した人もいたようだ。もちろん強固な信念のもとに終戦まで拘置所で過した人もいた。互いに隔てなく理解できる言棄を使用し、友好と平和に貢献しようとするエス語創造の理念は、多くの人々に理解されたようだか、すぐ利益につながらないために、戦後日本の若者の間にはあまり受け入れられなかったようだ。
近年国際社会の仲間入りをしたアジアの先進国日本において次第にエス語は市民権を得つつある
と言えよう。
マンフレッド氏とは1988年5月までに13回手紙を交換し東ドイツの地図も受け取った。日本の地図が
欲しいというので探してみたが、唐津市のような小さな町に英語解説の地図など売っていない。幸いに新婚ホヤホヤの姪が東京に住むことになったので早速書店で適当なものを探してもらった。確実に届くように書留(追加料金350円)にして封筒には全部で13枚の記念切手を貼った。
1986年3月から、東ドイツのマイセン市のエスペラント会と私は文通を始めていた。マイセン市が陶器市
で有名な佐賀県有田町と姉妹都市になったのは1979年である。
以前からマイセン市のエスペランチスト達は有田の仲間と文通を希望していたが、残念ながら不成功に終わっていた。なぜなら有田町にはエスペランチストが一人もいなかったからである。
唐津に転居してきた私は陶磁器に興味を持ち始めていたので私が代表で文通相手をしていたのだ。
すでに有田町には小規模だが「マイセンの森」という公園もあり、マイセン市と有田町とは一年おきに訪問を続けている。
1986年はエスペラント語が誕生して100年目を迎えたので、世界的に有名な有田陶器市の紹介をマイセン市でやろうと私は考えた。勿論高価な磁器などは私の月給を1ヶ月分つぎ込んだとしても、わずか1個か2個いや1個も買えないかもしれない。沢山の有田磁器が古伊万里という名称で、数百年前の品々がマイセン市の製陶工場や博物館に所蔵されているはずだ。ドレスデンの国立博物館の地下室に、数千個の古伊万里の大壺や皿などが眠っているという。その価値が最近見直され、階上の展示室に飾られているという。近年の素晴らしい焼き物は、既に有田町から寄贈されているはずだ。
そこで私は、安くて一般家庭で使用するような品物を送ろうと考えた。陶器市の当日、朝から夕方まで一日中店から店へとめぐり歩いて、セットくずれ等の入ったバケットの中からキズのない立派な器だけを選んで30個ほど買った。安い物で30円から高い物も値切ってニ百円程度、平均すれば1個当たり100円以下となった。盃・小皿・湯飲み・向付・珍味入れや銚子等種類は色々ある。
これだけでは少々もの足りないと感じた私は、賑やかな陶器市の写真も送ろうと考えた。5月のゴールデン
ウィークの、わずか1週間足らずで70~80万人の訪問者を受け入れる、魅力溢れる陶器祭の雰囲気を写真で伝えようというのは、我ながら名案である。
自分で何枚か写真を撮ってみたが、サービスサイズの素人写真では全くさまにならない。思案していたところ陶器市の直後に、有田商工会主催の写真コンクールが開催されているのを知り、私の計画を説明して入選者の住所を教えてもらった。
早速電話と手紙で協力をお願いしたところ快い承諾を得て、何と50枚ほど集まった。
1枚が1500円以上もするという四つ切り写真の大半がカラー写真で、写真の中の店の主人や客のの表情も豊かである。子供や老人、恋人達に年輩夫婦、それにシスターや赤ん坊、おまけに外人観光客もいるという、素晴らしいものぱかりである。
さて、これらの品物をマイセン市ヘ送ろうとして、また難問にぶつかった。重量は3キログラムほどだが東ドイツまで船便で壊れずに無事届くか心配である。航空便だと確かに速く着くし幾らか安全のようだが送料が非常に高く、われ物で書留受取通知付となれば1万5千円にもなる。
おまけに東ドイツの個人に、大きな荷物など直接送れないと聞いて困った。下手すれば関税の問題も残っていて、相手に迷惑をかけられない。困り果てて文通相手に手紙を書こうとしたら、夫婦とも年金生活者なので今は夏期旅行中、隣の国々へ出掛けたまま数ヵ月は戻らないから、しばらく手紙は送るなと知らせてきた。
羨ましい限りである。やっと連絡がとれたのは11月に入ってからだった。
12月15日恒例のザメンホフ祭には間に合うようにマイセン市での対策を至急考えてもらった。幸い文通相
手のご主人は、マイセン市にある国立製陶工場に退職するまで勤めていたというので、製陶工場総裁の援助に
より、京都市にある日本代理店を経由して全ての品物を無料で送れるようになった。更に好都合だったのは、
その代理店主が私と同姓の「橋口」さんであり、彼女からの知らせが届いた数日後に有田町を訪問する予定に
なっていた。
マィセン市では公的施設の使用許可が簡単に出なくて、待ちに待った彼女の展示会は、ついに1988年
4月2日から15日迄の2週間、マイセン製陶工場のクラブ室で開催された。この時期の2週間は、年に一度
マイセン製陶工場が開放される期間である。東ドイツに近隣の国々から入国できる唯一のときだという。
私と彼女との約1年間に及ぷ展示会取り組みのニユースは、当地の新聞や雑誌にも紹介されラジオ放送も流れたという。エス語に翻訳された記事も届いた。普通隣国の人々も東ドイツには簡単に入れない模様で、マイセン市の旅館には国外の人は宿泊出来ないという。私の文通相手で展示会を見に来る人がいれば、許可を貰って自分の家に泊めるから早急に知らせよと書いてきた。
この計画について、同じ国ドイツのマンフレッド氏に手紙を書いていたのだが、彼のところから彼女の町まで
かなり遠く残念ながら見に行けないと返事がきた。しかし私が贈った展示物を是非とも彼女から借用して、自分の展示会の一角を飾りたいと希望を寄せてきたので、すぐに彼女へ協力依頼の手紙を書いたところである。
7月には彼の仲間が素晴らしい展示会を喜んでくれるだろう。
ソビエト連邦からの最初の手紙は、リトワニアから4月15日に36番目として到看した。航空便で9日間
かかっている。中には絵ハガキ2枚、封筒に貼られた切手が気に入った。ソ連の人と文通できるのも嬉しい。
文通申込みを添えた私の絵ハガキを、相手はとても喜んでくれた。5月26日にはエス語解説付の『ソビエトとは、どのような国か』というパンフレットを受け取った。
広げると新聞の半紙ほどの大きさで、両面カラー刷りの立派なものだ。ヨーロッパの犬抵の国では、この手のパンフレットが数種類作成されているようだ。
ロシア領ポーランドの眼科医ザメンホフ博士によって造り出された世界共通語エスペラントの本が出版された
が、最初の印刷に使用された言語は、当時のポーランドを支配していたロシアの言葉である。リトワニアはエス語が盛んなのだろう。こんなパンフレットは残念ながら日本にひとつもない。作成するように中央機関に何度か提案したが未だ実現していない。
今度の封筒にも、美しい山の絵のある大きな横長の切手が貼ってある。次々に受取る絵ハガキも素晴らしい。
近年発展し続ける東洋の国日本の文化や科学に関心を持ち、地区の建設現場監督で独身寮生活を満喫しているアルーナス氏(30才)は、日本の建築物に大変興味を抱いている。勿論彼の地区のエス語の中心的指導者でもあり、講習会の様子を色々報告してくれる。
彼の地方の詩人が書いたという『人間』というタイトルの詩集を送ってくれた。読後私も著者の作意を汲んで
エス語で短歌を10首ほど作って送ったら、まあまあ好評だったようだ。
お互いの写貞も交換し、竹下夢路が描いたような和服美人の絵の、6枚組カレンダーも送ってやった。
8月の気温は19度、水温は16度だという。彼の地区の女学生が、エスペラント大会のコーラス部門で見事優勝したと11月に伝えてきた。
当然我々の話題はゴルバチョフのペレストロイカにおよんだ。以前では考えられないほど開放された環境下にあり、国外の情報もどんどん入ってくるとのことだ。すでに8回目の手紙を受け取った。
43番目の手紙はスペインから4月21日に届き、史跡写真の良質な絵ハガキが入っていた。マンレサの年金生活者ヨセ氏である。歴史や地理に驚くほど詳しく、観光絵ハガキを集めているという。幾度かの手紙のやり取りで分かったのだが、なんと彼は私と同じ9月2日生まれで29才上の74だという。更に驚いたのは、生きていれば私と同じ年齢の一人息子を、自血病で29年前に亡くしたというのである。突然日本に息子が現れたようなものだ。
日本の地図を沢山集めていて、東北・北陸・関東・東海・中部・中国・四国の地理に詳しい。お前さんが住んでいる佐賀県は九州一小さな県だが、送ってくれた絵ハガキの波戸岬や立神岩が何処に在るのかわからないので九州の地図を送ってくれという。東ドイツのマンフレッド氏と同じように東京から取り寄せて送った。
スペインの絵ハガキは実に綺麗で、絵の解説を必ずエス語で書いてくれる。
5月25日に60番目の手紙がソ連のタリンから、7日間の飛行機の旅だ。野草の絵の切手が可愛らしく、自然とスポーツが好きだというエストニアに住む14才の女学生で教師から私の住所を教えてもらったという。
丁寧で流れるような横文字が、細縦長の小鳥の絵の便箋に見事に並んでいる。絵ハガキが素靖らしく、真夜中のトラの子の絵と雪の申のキツネの絵だ。お礼の手紙を出したが、その後返事がなかった。
12月20日にクリスマスカ一ドを入れた封筒が届き、洋画を題材にした大きな切手が4枚も貼ってあった。
郵便局の会合で切手にうるさい会員に見せたら、皆が素晴らしいと驚いてばかりだった。
3月4日また野草の切手を貼った手紙が着いた。毎月私の職場にやってくる保険外交員のおばさんから貰うアルミニウム製の腕時計用カレンダーを送ってやったが、残念ながら彼女には届かなかったらしい。
おまけに封筒も開けられていたという。かなしい事実である。
冬は厳しく零下15度から20度になるという。二匹のネズミ(実験用のネズミと書いている)を飼っているが、あなたは何を飼っているのかと尋ねたので、アパート住居は犬や猫を飼うことを禁止されているのだと返事した。
以前送った手紙を受取ったのかと心配して聞いてきたので、到着した日付を知らせた。外国との文通の
自由がどれほど許されているのか知らないが、ソ連は共和国であり、夫々の国によってかなり異なるようだ。
リトワニアのアルーナス君とは何の支障もなく続いているのに。
この少女の名前も残念ながら記すことが出来ない。最後の封筒には鹿の絵ハガキが入っていた。本当に自然を愛する少女にちがいない。
78番目はユーゴスラビアのヤニチッチ氏からで、ニ人の子供は切手を集めているが日本の切手はたったの5枚しか持っていない、と書いた短い手綴と絵ハガキが届いた。6月15日発7月18日到着となると、なんと35日間の船便である。早速使用済切手を6枚ずつ、まだ小さな姉妹に送った。
受敢った切手を子供たちが学校へ持って行き自慢したところ、友達に大変羨ましがられたとの知らせがきた。
今からお父さんを先生にエス語の学習を始めれば、大人になる頃には世界一の切手収集家に成れると、ニ人の子供達に伝えてくれるように書いた。彼と5回の文通が続いている。
4番目は西ドイッのゲオルグ氏(59才)だった。私の返事にすぐ手紙と写真を送ってきた。彼が開催した
エスペラント展の写真には沢山の収集物がみえる。何と彼は 50名以上のエスペランチスト(エス語を使用する人)
と文通しながら未使用切手を集めている。彼とは4回手紙を交わし、8月にはワルシャワの世界大会会場から、
記念切手を送ってくれた。
4月18日オーストリアとの国境近くの西ドイツから二人の娘さんを持つゴールド氏(52才)が、数キロに及ぶヨーロッパで最も長い城だという素晴らしい絵ハガキと共に次のように書いてきた13番目の手紙である。
ドイツ語と日本語は全く異質の言語だと私は思うのだがザメンホフ博士の考案した簡潔で素晴らしいエス語のおかげで、今こうして日本の見ず知らずの君と意見を交わすことができることに大きな暮ぴを感じている。
きっとエス語が人々の心を捉えると私は確信している。残念ながら私の町には他にエスペランチストはいないが、私の背広の襟にはエスペラントのシンボルである縁の星のバッヂをいつも着けている。文通と雑誌購読が私のエス語学習方法だ。
私は科学工場で働いている。音楽が好きなので工場のブラスバンドでトランペットを演奏している。以前はチェコに住んでいた。政治的に無理やり分離されたヨーロッパの国々について、君がどれほど理解しているか私は知らないが、興味があるなら今度書こう。私の姓ゴールドは「金」を意味するが、そんなに高価な金属など個人で一度も所有した事がない。親愛なる友よ、君はどんなテーマに興味を抱いているのか。
同封の絵ハガキ3枚はエス語だけで印刷されていた。封筒の中には、電気機関車のチェコ切手3枚、飛行機のアメリカ切手1枚、貝殻の切手3枚、飛行機のドイツ切手1枚、その外に3枚入っていた。ミュンヘンの町の絵ハガキは普通の絵ハガキと違っていて、少し斜めにして光を当てるとキラキラと輝く珍しいのだ。
4月28日には子供の絵ハガキを4枚送ってきた。その中の1枚は少女が両手で子鹿を抱いているものだ。
私はこの種のものを日本で見たことがない。彼は私たちのメールアート展にも作品を送り、友人にも協力を呼び掛けたと知らせてきた。影絵の絵ハガキが欲しいと返事を出したら、何と16枚の影絵ハガキが届いた。
他国のエスぺランチストから受け取った手紙の封箇を自分に譲ってくれという。冗談じゃない。封筒は海外文通の証拠品なので譲れないと書いたら、今回自分が送った封筒は、ぜひ送り返してくれというので、彼の要望に応えた。
彼は切手に詳しく日本で最近発行されたばかりの切手を知っているし、その上スポンサー付きの郵便ハガキが35円で買えることもすでに知っていた。勿論メロディ電報の存在も知っていて、使用済みのものでよいから送れと再三再四催促してくる。メロディ電報は高価だし、すんなり購入して送るのも嫌だ。
未だに対策検討中である。手持ちの絵ハガキや使用済みの切手の数も少なくなった。唐津では数種類の絵ハガキしか手に入らない。買ってばかりでは高くつくし、絵ハガキも数枚にし使用済み切手も容易に集まらないので、数枚ずつ送るという具合に、3回ほどやり取りしたら文句をつけてきた。
自分はまだ切手シリーズを一つも受け取っていない。650マルクの給料の中から結構な額の郵便切手料を
払っているのだから、もう1つや2つくらいのシリーズを受取っても良いはずだ、といってきた。
このシリーズというのが癖者で、日本郵政省が発行する切手シリーズは、ほとんど60円切手20枚で1シートとなってをり、一連の発行も4~5回は続く。つまり1シートで1200円、もし5回も続くと合計で6000円にもなる。ヨーロッパの大抵の国がそうなのだろうか切手1枚か2枚で1シートとなったものがあり、これなら10シートでもたいした金額にはなるまい。
君が望むなら教百枚の絵ハガキを送ることも出来る。どんなものでもよいから百枚ためて送ってくれ。
蝶が4枚ついた記念切手が最近発行されたはずだから、それを送ってくれ、という。もう何処の郵便局にも売っていない。知人に頼んで何とか1シート手に入れて送ったら、とても喜んでくれた。このままでは私の方が続かないし、手元にはかなり絵ハガキも集まっている。70人ほどの協力で150枚以上の絵ハガキがすでに私の手元にある。私は絵ハガキの収集家ではないし、単なるエス語普及展示会の為に集めているのだから、もう十分だと書いてやった。
すると私の文通相手の中には彼と同趣味の人が何人かいるはずだ。その人達の住所を教えてくれ、と彼の熱心さには呆れるやら感心するやらである。私の文通者は、日本の私と文通を希望しているのだから、本人達の了解がなければ住所を教えることは出来ないと返事を書いた。私のように広告を雑誌に出したらどうだと書いたら、反論はなかった。
しばらくして文通を続けたいと書いてきたので私も異存はないし、彼との文通はなかなか面白そうでもある。
だが今まで通り切手を送っていては、すぐに行き詰まってしまいそうだ。何か良い方法はないかと思案していたら、唐津郵便局が世話人となった切手収集家達のグループがあることを知った。驚いたことに記念切手が発行される都度その見本をわずかではあるが入手できる機会がある。まるで天から降ってきたような話である。
早速入会し3種類ほど手に入れ、普通の者は絶対に買えない代物だと言って送ったら、今までに一度も見たことがない、沢山送ってくれという。見本の切手に解説がカードが付き、記念切手の写真が絵ハガキの大きさに収められている。会費は年間わずか800円、まるで只同然である。
2ヵ月に1回開催される会合に私は受け取った手紙を毎回約20通ほど持参しエス語宣伝のために会員に見せた。封筒に貼られた珍しくて美しい切手の数々に驚く会員が多く、マンフレッド氏が日本の切手収集家と切手交換を希望していると話したところ、年配の女性が交換に協力してくれることとなった。
彼女がくれたのは記念切手発行日のスタンプがあり記念切手の図柄が入っている記念封筒と記念切手、さらにその解説書付きのものだった。切手収集家が求める揃いの一組だという。すぐに東ドイツに送り彼女のテーマの蒸気機関車・昆虫や動物の切手交換を伝えた。時価に直せば10倍も否それ以上もするものだから、十分な量の切手を彼女に送ってくれと申し出た。
こう書いて良く考えてみると、以前に私が催促されていたのとまるで反対のことを今度は私がやっている。
彼は、高価なものはいらないから見本シリーズをずっと続けてくれと書いてきた。彼女へ送られてくる切手は
どれも素晴らしいもので、構図や色も美しく切手収集家でない私でも欲しくなるものぱかりだった。切手を貼るときは、田の字のように4枚の角を合わせて貼ることを彼の教えで知った。これは、チェス盤のように貼れという彼の指示だった。
27番目は隣の中国から最初の絵ハガキが届いた。4月2日着航空便で11日間とはちょっと長い。
彼女の住所は中国語で書かれている。絵ハガキは良質ではないが丁寧に書かれたエスペラント文が私の心を捉えた。返事を出したら4月11日に2度目の手紙が来た。
2年前からエス語学習を始め、趣味は観光絵ハガキ収集と中国および外国の文化を知ることで、長い手紙を書いてくれと言ってきた。
小さな封筒には少女と熊の人形のイラストがあり1元10分の切手が1枚貼ってあった。普通の労勧者の月給の百分の一以上に当たり高額である。18才の娘が、そうたやすく多額の郵送料を出せるはずがないと考えた私は、すぐに家族のことを尋ねると同時に、国際返信用切手を3枚同封した。
エスペランチスト達は、経済的に豊かでない国の人を支援するために、この国際返信用切手を送って相手の返事を待つのが習慣となっている。5月4目にはもう3度目の返事がやってきた。
病気の母親と二人で生活しています。毎日自転車で通学していて、冬にはバスを利用します。中国では多くの人々が仕事や学校や遊びに行くのに自転車を使用しています。昨年の夏休みには、北京と大連に旅行しました。
貴方の奥さんは働いていないそうですが何故ですか。働くのが嫌いなのですか。貴方は宗教を信じますか。
中国には共産主義と宗教しかなく、精神的弱者が宗教を選びます。私は宗教を信じていません。
彼女の好奇心は旺盛で何でも質問してくるので私も率直に意見を述べた。女性の権利が近年重視される中国では、若い女性で仕事を持たない人はいないようだ。私は次のような返事を書いた。
私の妻は今働いていないが結婚するまで銀行に勤めていました。私達は家事と仕事を夫々が分担しているのです。同僚のの幾人かは共働きで、昼間の子供の世話を祖父母に見て貰ったり、保育園に預けています。しかし私は、自分の子供を自分達の手で育てようと、独身の頃から決めていました。
「人間は環境で育つ動物であり、生まれながらの天才など一人もいない」と主張するドイツの教育者カールビッテの人間教育論に私は心から惹かれていたからです。
私の両親が育った時代は、軍国主義と古い時代の封建制が尾を引いていて、家父長制が重視されていた時代であり、これからの時代の人間には、あまり良い影響を与えないと考えたからでもあります。
年下の子供も10歳になったので、妻に時間の余裕もできたし、家の中にいるよりも多くの人に接する方が
良いと二人で考えました。それに彼女の趣味のために自由に使えるお金も、多少必要になったからでもあります。だが現在の日本では、なかなか適当な仕事が見つからないというのが実情です。大体こんな内容の手紙を書いた。
実はこのころ彼女は学校を卒業したばかりで、すぐに就職できずヤキモキしていた。やっと就職試験に合格し会社も採用を決定していたのに、上部機関の指示で彼女の就職は取消され、すっかり落ち込んでしまい孤独との戦いの最中だったのだ。また私は次のようにも書いた。
この世の中には共産主義のほかに資本主義も社会主義もある。私は宗教を特に信じてはいない。
しかし大部分の日本人の家には、神様を奉る神棚と仏様を奉る仏壇がある。
日本人の宗教観は中国人とは少々違っていると思う。日本人の中には、キリスト教信者もいるし他の宗教信者もいて全く個人の自由である。こんなわけで西洋等の教会におけるキリスト教徒の宗教観ともまた違う。
君は原爆について関心がないというけれど、これからの人類の存続に関して避けては通れない問題のひとつになると私は考えているので、私が贈った原爆についての本をぜひ読んで欲しい。もし君が読まないのなら、すぐ私へ送り返してくれ。ヨーロッパのエスペランチスト達はとても関心を持っているし、原爆に関する本を欲しがっているので送ってやりたい。
事実チェルノブイリの原子力発電所爆発以後ヨーロッパの国々では関心がたかまり、私への手紙でも資料を要求してくる人がかなりいた。私は韓国から取り寄せて読んでいるエスペラント雑誌や、原爆読本のエス訳『水を下さい』ほか数冊の本を彼女に送っていたのだ。
中国政府の現政治体制下で許されている自由が、どれ程のものか私は知らない。再就職も決まって自由な時間を持て余し気味の彼女に対して、エス語を使って外国の沢山の仲間と意見を交わし何でも学ぷようにと書いた。
彼女の夢はヨーロッパのある国に行くことだという。彼女の手紙は1988年に入ってから既に4回受取り、
その都度私も返事を出したのに、どうも彼女には届いていないらしい。
最後の手紙で4ヶ月も何故返事をくれないのかと書いてきた。私の勝手な憶測だが、どうやら検閲に引っかかったのかも知れない。もっと詳しく報告したいのだが、かなり自由な我が日本においてさえ、国家機密法などという末恐ろしい奴が、大手を振って歩きだそうとしている今日この頃、ここに彼女の名前を記すことを、私は躊躇した。
一旦活字になってしまうと何処に誰の目があるやらわからない。何も悪い事はしていないのに不安の多い時代になりつつあるようだ。5月初めに私は書留の手紙を出したがまだ16回目の返事を受取っていない。
7月には追跡調査をしなければならないかもしれない。今彼女の部屋には、沢口靖子のカレンダーが貼ってあり、穏やかなその表情は彼女のお気に入りとなっている。
53番目はハンガリーからだ。3月28日発で5月4日着、実に38日間もかかっている。封筒に航空便指定の文字が見当たらないので船便ということになる。ブタペストに住む28才の事務員だという。ハンガリーは
エス語の本場で、国家認定のエス語専門の教師が学校で教えている。手紙を出したら今度は航空便で返事が来た。7日間しかかかっていない。2月1日に12月23日発のクリスマスカード兼年賀状を受け取った。
手紙はまた書くとあるがあまり希望を持てそうにない。
10月9目にイタリアから素靖らしい絵ハガキがバラバラと5枚も届いた。書いてある字をよく見ると、どうも同じ人のようだが住所は5枚とも違っている。字も乱雑であまり気乗りしないが、折角送ってくれたので絵ハガキ5枚で返事を書いた。
その後2度目の手紙も来ないので特段気にもしていなかったのだが、1988年3月28日に大変な手紙が
舞い込んだ。5枚の絵ハガキの張本人52才のネグローニ氏からである。15名の住所を書いてきて、夫々に激励の絵ハガキを送って呉れという。日本からの絵ハガキでエスペランチストヘの勧誘をしようということらしい。
アイデアは良いのだが、相手に選ばれた私は少々困ってしまった。必要な費用は自分が持つというけれども、
はたして他人から無料で貰った1枚の絵ハガキくらいでエスペランチストがそう易々と生まれそうには、どうしても思えない。私は次のような提案を彼に送った。
15人の知人から何でもよいので、彼らの不用品を1点だけ集めて私に送ってくれ。私はそれをもとに、エスペラント普及の展覧会を開催し、その写真と絵ハガキを送ろうというものだった。彼がひょっとしたら諦めるのではないかという私の思惑もあった。これに対する彼の返事はもっと私を驚かせた。
今度は60人の住所を書いてきたのだ。勿論私の提案に賛成し既に幾人からネクタイ等を集めているという。
おまけに航空便で大きな封筒が届いたので開けてみるとエス語に翻訳された『ピノキオ』をはじめ沢山の資料が出てきた。とうとう私も決心せざるを得なくなった。
先ず15名分の絵ハガキを集めることにした。買えぱすぐ送れるのだが一人につき100円、15人で約1500円ほどかかる。その上60人となると6000円になる。お金を出来るだけ使わないで文通するのが私の主義であり、各種展覧会の案内状や無料で貫える絵ハガキ等宣伝用ハガキさえも、何処からでも手に入れてくる。
早速佐賀市内まで日展の美術観賞に行った帰りに佐賀NHKへ立ちより、大河ドラマ宣伝用の武田信玄の奇麗な絵ハガキを頂戴してきた。おまけに名刺型のカレンダーも項いた。一国民の極く些さやかなる権利の行使というところで大目に見てもらおう。今年の秋か冬には、素晴らしい展覧会がイタリアで開催されるかも知れない。
ついに100番目イランから最初の手紙が1月5日に届いた。12月24日差し出しなので13日間の航空便である。年末の混雑時期なのでむしろ短い方かも知れない。身長155センチで青銅色の眼の若者アバミ・ザデフ君(17才)だ。切手や絵ハガキと映画やスポーツの雑誌を集めている。彼にとって私は日本人の最初の文通者だという。彼のエス語はまだ私より不十分だが、積極的にどんどん書いてくる。
学生で英語とアラビア語を習っている。イラン・日本石油科学工場の管理者の父と、病気で入院している母とがいると書いてある。
おしげもなく12枚の未使用切手を送ってきた。6ドルとトヨタやニッサン自動車のカタログと、自動車会社の住所を送ってくれとある。カタログはともかく何故6ドルを私が送らねぱならないのかと書いてやった。
彼の返事はこうだ。中国のエス雑誌を買いたいのだがイランではドルや円が手に入らない。ドルでなくても3千円でよいから送って欲しいという。
記念すべき100番目の文通者として、すでに本を5冊ほど送っていたので、私の住所を手に入れたルートで中国の本を借りて読むようにと書いた。自動車のカタログは近々送るため今集めている。
以上の面々が、私の絵葉書収集の小広告に対して、絵ハガキや手紙を送ってくれた伸間達の一部で、今も文通を続けている。1988年3月末迄の資料をもとに、最後に少しまとめを書こう。
100名から受け取った手紙総数193通、絵ハガキ総数312枚、未使用切字約70枚となる。わかつた範囲で最高年齢は67才、最低年齢は13才。男牲27名に女牲16名、性別不明57名。国数24カ国、協力者が最も多かった国はポーランドで19名、以下中国15名、東ドイツ9名、ブラジル・ハンガリー・イタリア・ソビエト連邦がそれぞれ5名となる。イギリス・ベネズエラ・カナダ・スェーデン・オランダ・アメリカからも届いている。贈り物は絵葉書のほかに本人の写真9枚、切り絵14枚、紙幣10枚。その他に観光案内、小さなカレンダー、本等など。
18番目のドイツ人マンフレッド氏は、51枚の絵ハガキを送ってくれた。この原稿が活字になるころには、私は400枚以上の絵ハガキを手にすることが出来るだろう。残念ながらアフリカや東南アジアからの手紙は届かなかった。イギリス・アメリカやカナダも1通か2通でる。ヨーロッパは確かに活発で、特に東欧はエスペラント語の普及もすごいが郵送期間が余りにも長い。そして中国のように郵便料金の負担が日本に比べると余りにも大きすぎる国も沢山ある事実を知ってみると、日本ほど海外文通を容易にできる国はないと思われる。おまけに、発展し続ける日本の人々との文通希望者数は増えつづけるばかりで絶えることがないと思われる。
数年前から、イランや中国では政府機関がエス語の普及に力を入れているし、韓国でも若者の中に活発な動きがある。現在日本でも主だった大学にエスペラント活動のクラプがある。それなのに目立ったエスペランチストの増加はない。近視眼的な営利優先に思われる国民性はますます国際社会において通用しなくなってくるかもしれない。
もう私は112番目の手紙を受け取っている。わずか一年間という短い期間に、なんと沢山の見知らぬ人々と手紙を交わしたことか、全く信じられない。もし私が英語をマスターしていたとしても、24ヶ国の人達へ自由に手紙を書けただろうか。今も気軽に文通している見知らぬ人々を私は自信をもって世界の友人と呼ぼう。
残念ながら私の手紙が幾人かへ届かない事実がある。中国とタリンの二人の娘達は、少さな国日本の中年のひとりの男性との、数ヵ月の文通で何を感じただろうか。
世界共通語エスペラントが、自分のカでかなえ得るはずの何かを、彼女達にきっと教えてくれると私は信じている。国境を越え、政治にとらわれず、性別を越え、年齢の隔たりをものともせず、そしてなによりも、それぞれの国の言葉を越えて心をつなぐ、平和と友好の言葉エスペラント語は、本当の自由のない国々において、今でも「危険な言語」と言われ続けるであろう。
以上で私のエスペラント文通紹介を終わるが先日大橋巨泉のテレビ番組「こんなものはいらない」のなかで、過去の日本の英語教育の誤りを指摘し外国人による実用英会話を推奨していたが、エスペラント語学習にとっては「そんなものもいらない」と私は断言しよう。
なぜなら私立普通高校しか出ていない現在47才の私のエス学習は、仕事をしている社会人として35才から始まり、通信講座の添削指導を6ヵ月間(実際には仕事の都合で10ヶ月後に終了) 受けた後は殆ど独習で外国の仲間達との文通や読書などで習得したものである。
中学高校と6年間みっちり教えられても殆ど役に立たなかった英語教育に私は疑問を抱き、外国語学習の新しい視点に、あなたがいつ立つかだけが残されている。
私にとってエスペラント語文通は真面目に努カする者が報われることの少ない現代社会に対する挑戦でもある。
【あとがき】
この『百通の手紙』は、私が所属した労働組合が毎年一回発行する文芸誌(1988年発行)に掲載された後エス語普及活動に役立て、また講習会の受講生や希望者に配布する目的で福岡エスペラント会が自費出版(1989年)したものを見直して加筆したものである。
たったひとつの言薬が世界中に通用するなどということは普通の人にとっては眉つばものであろう。しかし現実にエスペラント語を使用し多くの外国人と文通するだけでなく、海外へ出かけて生き生きと交流を深めている人達がこの孤立した島国日本にもけっこう住んでいる。
当時地方に住む私にとって生きているエスペラント語を自分の身体で確めることは胸の躍る大事件であり一人で出来るエス語普及活動への私の挑戦へと発展した。
おかげで私の人生は、これまでに比べると百倍も千倍も豊かに成り、現在ではライフワークと成っている。
2001年9月 ホームページ掲載時一部修正 橋口成幸