3.原発事故の真実を語らない不信感から避難を決意
地震発生翌日の3月12日早朝、取引先工場の被害復旧のため、原子力発電所のある双葉郡大熊町へ向かいました。しかし、津波の影響で国道が数カ所冠水し、車の運転も困難になりました。
双葉町(以下「双葉町」)の入口で警察による立入り検査が行われたことにより、原子力発電所が立地する双葉町及び大熊町への立ち入りが禁止となりました。したがって私たちは工場に行くことができませんでした。
検問所では「原発は検査中なので立ち入りはできない」「何かあったら助けようがない」と言われました。
仕方なく帰宅すると、ラジオで原子力発電所がすでに危険な状況にあり、午後3時36分に原子炉建屋で爆発が起きたことを知りました。
家に帰ると娘が「原発が爆発したけど大丈夫?」ととても怖がっていました。
しかし、報道では「爆発はなかったが、換気作業により内圧が爆発的に上昇した」と説明されていた。 誰かが「空気が抜けた」と言った。 しかし、「換気工事で外壁が飛ばされるはずがない」と思い、実際に不快感から叫んでしまいました。
それ以来、屋内退避で十分であり、屋外に避難するような重大な事故は起こらないと繰り返し報道されてきました。
しかし、私は仕事で放射線障害について学んできたので、「放射線被ばくを防ぐ最も確実な方法は被ばくを避けることだ」と絶対に信じていました。
したがって、「原子炉建屋の爆発という異常事態が発生したにもかかわらず、避難する必要はない」という報道は不自然だと感じました。
今、原子力発電所で大変なことが起こっています。 また、正確な情報が公開されていない可能性が高いです。 娘だけでも避難したいと思い、父と相談し、弟の住む滋賀県栗東市に避難させることにしました。
3月13日の朝、私は妻の軽自動車(軽自動車、660cc)に娘を乗せて相馬市の自宅を出発し、滋賀県栗東市に向かいました。
途中、相馬市警察署で道路状況を尋ねましたが、有力な情報は得られませんでした。 そして、道路で大きな土砂崩れが発生し、迂回路を余儀なくされ、渋滞が続いた。 このため、東京駅に到着したのは14日の深夜3時頃でした。
14日は東海道新幹線が始発から運行するので、始発を待ちました。 娘が電車に乗って座ると、電車が走り出す直前に泣き始めて、私も妻も心が痛くなりました。
東京駅からの帰り道、ニュースで原発がメルトダウンした可能性が高く、最初の爆発以上の爆発が起こる可能性があることを知りました。 「放射線被ばくを避けるために安全な場所に避難し、事故が収まり安全が確認されるまで待ちます。 それが最善かつ正しい行動だ」、とニュースは言った。
そして二度目の爆発が起きたとき、娘を早めに避難させたので心の底から安心し、家族全員で避難することにしました。
妻は最初は乗り気ではありませんでしたが、さらなる感染拡大のリスクが高く、治療法や回復方法がないことを説明すると、最終的には同意してくれました。
入院中の父を避難させたいと思い、医師の許可を得たいと連絡し、相馬町の自宅まで車を走らせました。
14日の午後5時頃に自宅に到着しました。 妻が母親の薬が病院に届かないのでもらえないと言うことで。 したがって、これからは彼女自身の責任です。 それが彼女が聞いた話です。
父の退院は許可されませんでした。 病院からは「何かあったら自衛隊がヘリコプターで搬送してくれるから大丈夫」と言われました。
そこで私は父の避難を断念し、14日深夜、再び妻と母とともに車で相馬市の自宅を出て、滋賀県へ向かいました。
福島市に入ったとき、市役所の明かりがついていたので、母のためにトイレに行こうと車を止めました。 テーブルの上にたくさんのお弁当があったので、「お弁当をいただけませんか?」と聞いてみました。しかし、「避難者のお弁当なのでお渡しできません」と言われました。
その後、東名高速自動車道を利用し、燃料と食料を調達し、15日正午頃に滋賀県栗東市の弟の家に到着しました。
私と妻はすぐに栗東市市役所を訪れ、福島県から避難していること、支援が必要であることを市職員に伝えました。 名刺がなくなりそうになるまで、たくさんの人に助けを求めました。
翌16日、私は津波で車を失い避難を希望していた娘の同級生とその家族を助けるため相馬市に戻りました。 18日に滋賀県に戻ったところ、関西地域医師会の判断による支援により、幸いにも栗東市の市営住宅に入ることができた。
そこで多くの新聞やテレビの取材を受け、娘の高校進学への支援をお願いしました。 その効果もあって、娘はその後、滋賀県草津市の高校に入学することができました。
こうして、入院中の父を残して家族4人で避難し、滋賀県栗東市の市営住宅に入居することができました。 その日、私は深い眠りに落ちました。