傘
問 一矢
三月末の街の中は季節通りの霧雨だった。何処でタクシーを拾うという当てもなく歩いていた。すれ違う人と肩が触れ合うのも朧気なのに、自分の靴音だけは何故か不思議なくらいはっきりと耳に入ってきた。
「木崎さん、木崎さん」
名前を確かに呼ばれていると気付いて後ろを振り
返ると、小走りで近寄って来る北島の姿が見えた。
「もう家へ帰えられるんですか」
「ああ・・・」
素っ気ない返事をした木崎に、北島は少しばかり上気した顔で言った。
「どこか飲みに行きましょう。このままでは木崎さ
んに悪いですよ」
送別会を終えて直ぐ皆と別れた木崎は、街の中を独りで歩いていた。
「いやいや、そんな事はないよ。今日はどうも有難
とう。今後とも宜しくお願いします」
木崎は仕事か終わって始まった送別会の主賓の中の一人だった。
「あんな送別会なんて無いですよ。皆文句を言って
ましたよ」
北島の少し上擦った声に往来の何人かが振り向いた。
「あんなもんですよ、世の中は」
すっかり世間を知った口調でいる自分自身に、木崎は面はゆく感じながら、たいして強くもない酒に赤く火照った顔が一層熱くなるのを感じた。
木崎よりひと回り程ど歳の若い北島が同じ職場に転勤して来たのは、つい半年程前だった。地方の短大を出たけれど三流企業への就職もないまま、大手の通信機器会社の孫請け会社であるこの会社へやむなく勤めることになった。彼は二十六歳になったばかりで、学生時代に知り合った二つ年下の妻との間に、二歳になる男の子がいた。入社後の最初の仕事は、請負部品の梱包を主作業とする軽く簡単なものだった。大学四年間で習得した知識を、一体どの様にこの職場で生かせばいいのか全く検討もつかず、労働運動の活発な職場の雰囲気にも、どこか馴染めないでいた。そんな折りに梱包作業機械が一台搬入されることになり、三名の職場移転を余儀なくされた。六十二歳の先輩が退職した。他へ移ることよりも、次々に変わっていく新しい作業方法に、率直に言えばもうついて行けないという自信の無さが退職を決意させたと、北島は聞かされていた。その頃急に忙しくなった木崎の職場の配置要員増に絡んで、若い北島が移って来た。
木崎より若い者は北島だけだった。移ってくるなり直ぐに北島が尋ねた。
「木崎さん、組合の役員されてるんですか」
「うん、そうだけど」
「前の職場は凄かったですよ」
北島のいた職場の活動を木崎はよく知っていた。先輩が若い者の学習会指導をしたり、公園で開催される集会には、そっと逃げ帰る者を見張って参加させるほど熱心だった。
「よく知ってるよ。メーデーのプラカード製作なん
か、以前指事を受けたこともあるからね」
北島は新しい仕事が部品の品質管理だと言うことに、大きな期待を抱いて来たのだ。
「部長の挨拶はおかしいって、皆そう言ってましたよ。
小川さんが部長に怒鳴ってましたからね」
木崎は黙っていた。雨は先程より少し強くなり、二人は傍のビル陰に入り込んだ。
「このままじゃ、私の気持ちも納まらないですよ」
「うん、分かった。じやあどっか行こう」
二人が歩き始めた時だった。
「おお、木崎君、ここにおったか。何処探しても見つか
らんもんで、こっちの方向へ行きよったと聞いたから急いで来たんだ」
傘を差し掛けながら木崎の肩を叩いたのは部長の隅田だった。誰が用意したのか手にはビニールの透明傘が握られていた。
「一軒飲みに行こう。すまんが付き合ってくれんか」
「北島君、悪いが二人で話したいことがあるので、すまんな」
どうしようかと蹄躇している木崎の様子を察して北島は言った。
「分かりました。木崎さん失礼します。どうかお元気で。また会いましょう」
「有り難う。今度電話するから」
北島の姿がアーケイド街へ消えるのを待って二人は歩き始めた。差し掛けたビニール傘から右半身をはみ出した大柄の隅田の身体は雨に濡れ、襟広の背広が光って見えた。
「どこか知ったところあるなら其処へ行こうか」
宴会の後に仕事仲間と夜の街に繰り出すことがあるくらいで、木崎に当てはなかった。
「普段飲まないもんで・・・」
最後まで開かずに隅田は言った。
「じゃあ、俺の行きつけがあるから」
二人は黙って歩いた。店まで十分とかからなかった。ドアを開けるなり、光線に揺らぐひと塊の煙草の煙が、ドアの外へすり抜けて消えた。幾つもの会話が織り混ざったざわめきと、潰れた声のカラオケが両耳からどっと飛び込んで釆た。店の女が一人上半身をねじって甲高く叫んだ。
「いらっしゃいませー」
「おう」
低い声を発し、顔馴染みらしく隅田は片手を挙げて挨拶した。
「お二人さんですかー」
店の中は狭く四人掛のテーブルがドアの直ぐ前に空いていた。
「ここでいいかしら。すみませんねぇ」
「いいから、直ぐビール二本」
「はーい。いつものお連れさんは」
「課長は別んところ」
「あら、また嫌われたんかしら」
「今日は送別会だったから」
「いやぁー、課長さん転勤」
「なんば言いよっとか。課長よりゃ俺の方が先たい。課長は俺の後。はよビール」
「はっ、はーあ、それもそうですね」
顔一杯の口をして笑った女を隅田は軽くあしらい、おしぼりを広げて手を拭きながら、前に座っている木崎の方へ向き直った。
「今日は参った。小川さん達に送別会で怒られてな。部長は何んちゅう挨拶ばしたとかって。そんな考えのモンと一緒に働こうごとなかけん、早ようどっかへ転勤せんかって。さっき分かれた北島にもおごられてな」
部長の挨拶を思い出しながら木崎は黙っていた。
ーーー 次に木崎君です。木崎君は我が社に品質管理課が設置された昭和五十年に入社し、当時は殆ど未経験だったパソコンを使用して、部品管理のソフト開発を長年担当してきました。今回その経験を生かして、エーエー、今回その経験を生かして、会社業務の総合システム開発チームへ移ることとなりました。色々と頑張って貰いましたが、他の活動では行き過ぎのところもありまして、他の人に迷惑も掛けていますので、今後このような事のないように、心を入れ替えてしっかりやって貰いたいと思います。 ーーー
他の活動とは、組合役員としての木崎の行動だった。迷惑とは、次々に出てくる会社説明の疑問を容易に納得せず、合意に手間取った労務担当のまずさを上部から指摘され、出世が遅れるだろうという噂のことだった。
通信機器の部品を請負う小会社にとって、通信産業の動向を遠い先まで見通すことが何よりも重要であった。一度新しい通信方式が開発されれば、通信機器の機能は全く以前と変わってしまうことさえあった。
ICチップを使用した部品は、新通信方式が世に出るごとに様相を替え形も小さくなっていった。こんな中で作業が身に着けていた技術は日に日に陳腐化し、以前よりよりも高度な技術を身につける能力を要求されていた。遠い昔の徒弟制度のように、先輩の技術を盗んで成長する時代は過ぎ去り、高齢者がついていけない新しい技術が次々に入ってきた。無駄口を交わす時間さえすっかり見つけ出せなくなった職場には、余裕が感じられなかった。
品質管理の重要性は理解できtても、不良製品数を目の前に突きつけられると誰もが黙り込んだ。作業者の首を絞める仕事を木崎は手伝っているようで、何故かしら後ろめたい気分にさせられたこともあった。我々労働者は、労働を売って賃金を手に入れる。だから労働の質は賃金の多少に大いに関係する。違った言い方をすれば、質の高い労働力を持たない限り賃上げ要求は虚しい結果に終わる。このような考え方も組合活動で得たものだった。経営方針では、親会社の指示待ちによる作業以外に、独自の商品開発チームを活発化させるように強く提言してきた。
会社の新しい提案がでた。
「最近不良品の数が増えましたね。木崎さん皆で検討してくれませんか」
「どんなことですか」
「技術力維持と向上の為のもので、数ヶ月に一回技能実技試験をやりたいのですが」
「具体的には・・・」
「基本的な半田上げの手順を一定時間内にやって貰って熟練者が評価し、出来が悪い人は数日間の訓練を受けるというものです」
「私個人の意見ですが、技術向上には賛成です。しかし優れた技術の者にはそれなりの報酬が必要だと思いますが。単に追い立てられて褒美も無いというのは、皆に簡単には受け入れられませんよ。何よりも高齢者にとっては、だんだん小さくなる基盤の上で作業するのは、端で思っている以上にしんどいものだと皆嘆いていますからね」
「我が社に対する部品発注率はどんどん低くなっています。東南アジアや台湾で安いチップが生産されているのを、貴方も知っているでしょう。関係会社の工場が今度上海に出来る情報を掴んでいます。何としても海外の品質より我が社の方が良いという実練を今残さないと将来があぶないと見てるんですよ。皆で検討して下さい。お願いしますよ」
労務担当から説明を聞きながら、議論する皆の不満げな声が、木崎の頭の中を駆け抜けて行くのを感じた。
女がビールと割きイカを持ってくると、隅田は
ビール瓶を持ち上げて木崎に注いだ。
「小川が俺に出ていけと言うんや」
「ほう、何んでですか」
「木崎さんは、私たちの代表で物ば言いよっちゃなかねって。あん人のごと一生懸命仕事しとる人はおらんとよ。あたしゃ同じフロアに居るけん、あーたよりゃよう知っとる。あんたのような組合無視ばするようなもんの下で働こうごたぁなかって言われてな」
「おおーつ、そうですか」
今日の送別会に皆も不満を抱いていたと、つい先程北島から聞いていたが、小川さんの件については思いがけなかった。職場の仲間は、それほど美人ではない小川さんのことを女優の小川真由美になぞらえて真由美ちゃんと呼んでいだ。仕事振りも機敏だというわけではなかったが、忘年会や秋の旅行では欠かすことの出来ないスターで、気軽に冗談を飛ばす五十過ぎの女性だった。
「若いときゃ、そりゃあ飲んだとよ。腰の抜けてしもうて、わけの分からんようになったことの二回程ある」
と本人が言うはど酒に強く、一晩泊まりの宴会の舞台では、浴衣の裾を捲り上げて艶めかしく踊った。なんの厭味もなく猥談を口にしたが、そのあっけらかんとした話ぶりに、皆の陰口など聞いたことがなかった。
「流石に真由美ちゃんは違う」
これが皆の行き着く言葉だった。 「小川が喚呵切って言うもんやけん、他の者も皆んな俺に怒るとや
もん、参ったよ。でもあんたも役目で色々やりよっとやもんな」
「うちのように会社と組合が運命共同体のようなところは、もっと腹を割って会社は話をせないかんと思います。いい仕事をする者には何らかの報酬を与えて、全体の技術向上を図っていく方がいいのと違いますか」
ほんの一時間前まで、自分の上司であった経営側の一旦である部長に対して、まるで一塊の経営者のような言葉を述べる自分に、木崎は内心驚きながら
でもこれは真実だと感じていた。親会社や子会社から、幾らかの発注契約を土産に天下りしてくる管理者達は、作業員の本当の苦しみを理解出来ていないのだといつも感じていた。
「ほんとに今日はすまんやったな。県外に行くんじゃないから、元の職場にも又顔を出してくれんか。頼むばい」
「はい」と返事をしたものの、今の木崎にとってはどうでもよいことに思えた。思い返せば、日頃管理者に意見を述べている木崎の傍らで、黙って見守っていた皆の姿勢を不甲斐なく感じてきた。あの時賛成の一言を今日の送別会のように口にしてくれたなら、もっと会社の方針も変わったかも知れない。今日が木崎との別れの日だから言ったのか、酒の力を借りて言ったのか、どう理解したらよいのか戸惑っていた。木崎がいなくなった後の職場に、押し寄せて来るであろう会社側の攻勢を、肌で感じたのかも知れない。役員活動にのめり込んでいた木崎を、皆はまだ必要だと感じたのだろうか。
以前木崎が役員になって暫くたち、会社の労務担当から一杯飲もうとの話を持ちかけられた。費用はこちらで持つから時間を空けてくれないかと言われたが木崎は断った。酒を飲ませて役員を丸め込むのだという周囲の雑音が、そのまま真実では無いとしても、そんな噂の対象に自分が成ることを木崎は嫌った。そしてどんな事があろうと、役員をしている間は決して一緒に飲みに行かない決心をしていた。
送別会の今日、この小さな酒場で、隅田とグラスを手にしている自分を見つめていた。
ドアが開いて客が入ってきた。金は俺が払うからという隅田に、「御馳走さまでした」と木崎は礼を言った。夕方から降りだした雨はもう止んでいた。女が先立って外へ出た。
「忘れ物だわ」
と、ビニール傘を取りに店の中へ慌てて戻る女へ、隅田が大声で叫んだ。
「いらん、いらん」
誰かが早急に隅田のために準備したのだろうが、必要でなくなると捨て置かれる傘を、木崎は何故か哀れに感じた。
(了)
九州文連通信
全電通九州文芸連盟
1996 年発行