薫風院繹逍遥居士
播磨固生
発表を開始した次のグループの声がロビーへ流れてくるのを開きながら、やれやれと椅子に腰を下ろした。相棒は上着のポケットから煙草を取り出し口にねじ込んだ。佐賀市街から半時間ほど離れた武雄市文化会館に会場を移して開催された支店ASK大会の壇上から、私と同僚はいま逃げて来たばかりだった。わずか十五分聞の発表と五分程度の質問や講評が終わり、やれやれと舞台裏からロビーへやって来たというわけである。
やがて発表が一段落したのか、がやがやと場内から人が出てきた。先に入って行った同僚のところへ、すこし腰をかがめながら近づき横の席に着いたのと殆ど同時だった。白壁を利用した呼び出しスライドで「至急職場へ電話して下きい」と言うメッセージとともに、何と私の名前がでかでかと映し出された。心あたりのないままロビーへ出た。電話をかけようとあたりを見まわしたが、十円玉の赤電話しかない。こんな時に限ってポケットに小銭が一枚も入っていない。そうだ、係員が携帯電話を持っている。
「会館の中では電波の通りが悪いんですよ」
私の声かけに答えると、直ぐに屋外に連れていってダイヤル出来るようにしてくれた。職場へは直ぐにつながった。
「急用とのことでしたが、何かありましたか」
「奥さんから電話がありましてね。福岡のお父さんが急に入院されたそうですので、来て下さいとのこと
です」
「じゃあ、これからすぐ戻りますから」
妻の職場に電話をしたが、携帯電話の操作に手間取った。普段使い慣れないものを、急用で使わなければならないことほど哀れなものはない。おまけに、通話状態もいまひとつ悪い。一階のカード公衆へ急いだ。先客がある。わずか数分の待ち時間がやけに長く感じjた。
「俺だけど。親父が入院したって」
「ええ、そうなの。さっきお父さんが町立病院に入院したって電話ありました。私も家に帰りますから直ぐ帰って来てください。自動車事故にならないように、ゆつくりでいいですから。気をつけて・・・」
「わかった。じやあ、町立病院の電話番号を一〇四で調ベといてくれ。ここから約三十分かかるし、向かうに行ってからずっと休むことになったらいかんから、会社にちょっと寄ってくる。子供にはまだ知らせんでいいから」
朝から雨だった。今年は天候異変で、三十度を超える暑さが数日続いたかと思うと寒波が来たり、どっと雨を持って前線が南から上がって来たりして、目まぐるしい限りである。天候異変の時期は、身体が弱った年寄りには厳しいからなあ、と思ったりした。思わぬ大雨に、暫く落ち着きそうだった雲仙普賢岳の土石流も再発して、その被害は昨年を凌ぐほどの凄さだった。十五時少し前に武雄を出たが幸い雨は上がっていた。
今日は五月十四日。今年の連休の五月二日に両親のところへ帰った。連休前に引いた風邪がまだ直らず、少々身体がだるいと言いながら、昼食の為にベッドを出て来てテーブルについた父の顔は、確か
に精彩がなく、何故か小さめに感じた。いつもよりは少なめの食事がすむとソファーで雑談をするくらいの元気はそれでも十分残っていた。その日は、母に頼まれた庭の土慣らしを弟と済ませて帰宅した。普段とたいして変わらぬ父の姿が、頭の中にまだはっきりと残っていた。入院したといってもそうひどい状態ではなかろうと思い、一旦会社へ出て机の上を整理し、社宅に帰ったのは十六時過ぎだった。
「お父さん、もう間に合わないんだって。たった今連絡がありました」
玄関に入るなり妻の言葉が冷たく響いた。
「十四時三十九分だって」
「そうか。この前の連休に会ったときは、とてもすぐ死ぬ様な感じじゃなかったけどなあ」
「どうします。すぐ行きますか。弟さんが実家に戻って、片付けをしてるんですって」
「子供達に知らせた」
「亡くなったって知らせました」
「とりあえず一晩泊まる準備をして行こう。葬式の日取りが分からんので礼服を持って行こう」
父は今年八十五才、母と四つちがいだ。父母の
家のある粕屋部須恵町に向かって自動車を走らせながら、一年の内に数回しか帰らなかった事が頭に浮かんできた。この数年の父の生活は、元気な時は九時過ぎにべッドを出て軽く朝食をとり、太陽の照りが強い夏場を除けば、花壇の手入れや、僅かばかりの菜園に鍬を入れたり、庭の草取りをするのが常だった。もちろん昼飯後のひと寝入りも、お決まりのコースだった。
「俺も、あと二年位しか生きとらんごたあ。外に長い時間出ておれんようになった。一日の半分は寝とるもんなあ。おかあちゃんは、まだまだ元気のごたるやねえ」と去年の夏の暑い日の夕方、ソファーにもたれて話をしている時に笑いながら父が言った。
母が先に死んだら、一人でこの家で暮らすという。病気になつたら須恵町の老人施設に入るという。食事の用意は、若い頃自炊生活が長かったので大して苦にもならず、福祉対策が進んでいる須恵町は老人に昼と夕方に弁当の配達をしてくれるサービスがあるので大丈夫だと育っ。悠々自適とまでは行かないまでも、父の生活はマイペースそのものだった。
父は若い頃かなり苦労をしたらしいと、母から幾度か聞いた。父の家庭は裕福だったとは言えず、学枚の成績が良かった父が進学出来そうにないことを知った中学の校長は、自分でお金を出してやってもいいから進学させたらどうかと、わざわざ家まで話に来てくれたという。働いて家にお金を入れる事の方が大切だと、自分の父に断られた父は、大きくなってから東京へ出て、昼間は警視庁の通信員をし、夜は学校に通ったらしい。でも交替の通信員が何度も時間に来ないこ
とがあり、夜学に通うことも途切れがちとなって、とうとう通学を断念したという。成人して仲間の何人かと鉄鋼会社を共同設立したが、儲けた金を仲間に持ち逃げされたりして、人生行路を順風漫歩で進むことはなかったようだ。終戦後母の兄の紹介で電電公社に入ってからまもなく結核を患い、長い闘病生活が続いた。母は私たち四人の子供と病気の父をかかえて、四十過ぎから美容師になるため苦労を重ね、既に美容院を開業していた姉の援助を受けて、ついに自分の店を持ち私達を育ててくれた。
当時小学生だった私には、博多で美容院を開業する母と三人の姉弟とわかれて、父と祖父と私だけの三人暮らしを一年間糟屋郡香椎町で経験した忘れられない思い出がある。病気がちで寝ていた祖父と二人で、帰りの遅い父をじっと待つ、薄暗がりのあの冬の日の、なんとも言いようのない気持ちに、よく自分が耐えられたものだと、大人になって何度思い返したかわからない。
このような事で父は、母に頭が上がらない一面を引きずりながらも、よく新開を読み、いつも月刊誌「文芸春秋」を片手に会社へ通っていた。休日になると、私や兄を誘って海釣りによく出掛けたものだ。音楽も嫌いではなかったらしく、小鳥の囁りが子供心を引きつける「森の鍛冶屋」のレコードを大切にしていた。父に見つからないように時々蓄音機にかけてみたりしたものだ。絵も好きで、よく展覧
会に出掛けていた。私がマジックで措いた近所の風景画を、気に入ったからくれというので渡したところ、かなり永い間父がよく居る部屋の壁に貼って楽しんでくれた。
父は私と兄に電電公社へ入るように勧めた。それなりに仕事をしていれば、減俸もなく、ましてや免職もなく、年次休暇が自由にとれ、おまけに半どんで日曜休みという条件は、中学の頃から働き始めて苦労を経験し世間の冷たい仕打ちに見舞われた父にとって、まるで天国の様なものだったに違いなかった。
「あくせく働いたりせずに、気軽にのんびりと好きなことをして暮らすのもいいぞ」
一生懸命働いた揚げ句の果てに仲間には裏切られ、当時は不治の病と言われた結核にかかり、長い闘病生活を経験した父の処世訓だったのかも知れない。
父の死に際して母は意外と冷静だった。既に高齢だったからでもあろう。母もそうだが、父の希望は自分の家で葬式をする事だった。既に自分の家系図を調べ上げ、墓作りも勉強して五年程前に新しい墓地も購入し墓石も建てている。後は自分が納まるだけだという用意の良さである。骨になって土に帰る方法の墓作りで、直接土のなかに骨壷を埋めるのだという。
暦を見れば明日は友引である。今日は身内だけの仮通夜をし、十五日に本通夜十六日に葬儀となった。朝からの雨が午後にはすっかり上がり太陽さえ照りだした。突然の連絡を受けた親せき一同が夕方
次々に訪れた。互いに父の死が余りに急であったことに驚き、また静かな死に方だったことに安堵と賞賛の言葉を交わしていた。母の口からもこれといって自分を煩わす事もなく亡くなった父に対して、短い言葉の中にも感謝のこもったものがあった。派手な祭壇はせず農協の葬式でよいからと言っていた父の言葉に反して、土・日曜日は農協が休み、僅か二時間ばかり世話になった町立病院の紹介で、病院出入りの葬儀社に一切を任せることとなつた。
五月十五日・十六日と二日間はよい天気に恵まれた。遺族と親族一同の挨拶を誰がするのか家族で相談したが、男の子供を持っていて、誰よりも父に一番似ているというのが決め手となり、私が代表で挨拶することとなった。葬儀のために、遥々佐賀や熊本からも参列者が集まった。前日も天気が良く日中は暑くてたまらない程だったが、今日は昨日にも増し
て日差しが強く、まるで初夏を思わせる程だった。狭い家なので中には親族の一部しか入れず、大勢の人が太陽の下で額に汗を滲ませていた。庭には小さなテントが張られた。
約束の十四時に少し遅れて、住職が到着すると直ぐに葬儀は開始された。信心深い母は住職の読経に併せて経文を口ずさんだ。ひとしきり読経が済んで、住職の講話が始まった。ふだん葬儀では住職の講話などないという。しかし、この住職は一味ちがう。
兄の前妻が癌で長く苦しんだ末に亡くなった折りに
も、一人残された中学三年生の女の子を前に、ワーズワースの七人の兄弟という逸話を語った。確か母親を亡くした八人兄弟のまだ幼い末娘に、牧師が悲しみと寂しさを労う言葉をかけたとき、その女の子は、
「寂しくないわ。私には七人の兄弟がいるから」
と答えた内容だったように覚えている。母を正面に見据えながら、今回もまた一呼吸置いて、私達に語りかけた。
「何時も痩身で病弱だとおっしゃられていた御主人様は、まだ七十過ぎ位と思っていましたが、もう八十五才にもなられていたとは驚きました。ここ数年は、お彼岸やお寺からのご案内を出しますと、よく寺へお見えになられていたように思い出しました。お名前ではぴんと来ませんでしたが、お写真を拝見しまして、ああこの方かと分かったのも事実でございます。大変失礼を致しました。
病院嫌いだとおっしゃられていましたが、他の人の手を煩わすこともなく亡くなられたことは、八十五才という年齢を考えれば、大往生だったと言えましょう」
「はい・・・」
「長い間生活を共にされて来られた奥様は、大変ご苦労様でございました」
「有り難うございます」
「実は私も片方の肺は真っ白で固まっております。一病息災と言いますが、ご主人は、よく頑張って生きられたと言ってもいいのではないでしょうか」
「はい・・・」
参列者に私は次の様にお礼を述べた。
「遺族ならびに親戚一同を代表しまして一言ご挨拶を申し上げます。本日は大変お忙しい中、また遠方より、父の葬儀へ多数ご参列頂きまして、誠に有り難うございました。生前中は皆様に一方ならぬご厚情を賜りました事を、厚くお礼申し上げます。
父は生前から、天国への旅立ちについてふたつの思いを抱いておりました。枯れ木が枯れるように旅立ちたいという思いは、他人の手を全くといっていい程に煩わすことも無く、八十五才の人生を終わりました。自分の家から旅立ちたいという思いは、皆様には大変ご足労をおかけ致しまして、今日ここにとり行われている通りでございます。
若いころから山登りや海釣りが好きで、自然を愛し花が好きであった父にとりましては、今日のこの天気に恵まれ、歌の文句ではありませんが「いい日旅立ち」になった事と思います。
故人生前のご交誼を深く感謝致しますと共に、残されました私達遺族一同にも、故人同様のご厚情を賜りますようお願い申し上げます。簡単ではございますが、これをもちましてお礼の挨拶にかえさせて頂きます。本日は大変有り難うございました」
火葬場への道は予想以上に混んでいた。今日は日曜日なので十六時までに斎場に入らなければ翌日まわしとなるという。冬時間のため四月までは、十五時が締切りだったという。亡くなった十四日は午前中雨だったが午後には晴れ、葬儀の十六日は住職の都合がやっとついた時間が十四時で、天気も十五日
十六日と快晴だった。何と運のいい父だったことか。骨になるまでの約一時間余り、休憩室にいる遺族は、特段哀しみにくれることもなく、行くべき時が過
ぎていくままに身を任せていることをそれぞれ感じているようだった。兄が運転する自動車の助手席で、あつい程に温もりのある父の遺骨を抱えて帰路についた。
父の死から丁度一カ月たった六月十五日、義兄死亡の報せが入った。享年六十才で昨年秋に定年退職をしたばかりだった。二年程前に風邪をこじらせて長い間咳が止まらなかった。休養するようにとの家族の言葉にも、今年で定年だからと、最高責任者として仕事を一日も休むことなく、最後になって呼吸困難となってしまった義兄の肺は、まるでアスベストをこれ以上吸えない程に吸い込んだ状態に似ていて、酸素吸入を続けながら約半年のベッド生活のすえに静かに息を引き取った。社内での信望も厚く、企業戦士ともいえる程の職歴を残した義兄の死に様と父の死とを思いあわせながら、仕事が優先か人生が優先か、自分の行く末を考えずにはいられなかった。
(了)
〔全電通九州文芸 第九号〕
全電通九州文芸連盟
全電通九州地方本部
平成5年8月30日発行