十.舞台で発表
旅館での最終練習を見るために市内合唱団創設者の西村氏がやって来た。今私たちが何をなすべきかを仲間に問うこの曲を評価してくれた。前年の県支部青年常任委員長だった中川氏も来た。彼も口には出さなかったが評価しているようだった。
だがそんなことはどうでも良かった。この発表のために本気で練習を続けてくれた十数名の仲間と、数回ではあったが練習に参加した三十名余りの仲間たちが、真剣に歌ってくれたと思っている。練習は一度通して歌ってみて、気がついた注意点を説明し、最後に全体を通して1回しっかりと歌った。
加来も私も自分達が持てる技量は未熟だが十分やれたと思っている。彼は出張先で譜面を作り、土曜と日曜を熊本まで出かけてきた。更に計画されていた出張も断り指揮に専念してくれた。私もそれなりにやった。家に帰って一時間はアコーデオンを弾く練習をした。ほとんど演奏できなかった楽器を、おかげで少しは上手になった。
日曜日の屋外での特別練習と毎週二日の室内練習一時間半に私たちは精一杯取り組んだ。二人ともこの組曲をただ歌わんがため。やれることは全てやったつもりだ。立派にできたとは思っていない。つまり今の私たち仲間の実力分だと評価している。もっと真剣にやれただろうが・・・
とうとう本舞台が来た。当日のプログラムを手にするまで知らなかったのだが、私たちの出番は最後に成っていた。つまりフィナーレの前だ。まさかトリになるとは思ってもいなかった。
舞台は始まった。だんだんプログラムが進んでいくにつれて、「空と海・・・」の発表の意義を改めて評価せざるを得なかった。この曲の出来栄えを言うのではない。つまり一緒に曲に取り組んだ仲間が、水俣病公害を全電通の九州の仲間に提起しようと議論し、何とか組曲らしきものを曲がりなりにも発表
するまでこぎ着けたことだ。
今やテレビで「公害」ラジオで「公害」週刊誌で「公害」勿論新聞でも「公害」。この現代矛盾をテーマにしたことを、我々は自信を持って評価していいだろう。
我々の出番が来た。加来が指揮をし私がアコーデオンを弾いた。私の伴奏の無い演奏は彼の指揮に比べると、はっきり言って見劣りするものであった。が後になっても誰も文句を言った人はいなかった。否言えなかったのかも知れない。もともと私の演奏の出来不出来など、どうでも良かったからだ。我々の言葉が皆なの口から大きな声でほとばしり出れば。皆なは自信がなさそうだったので楽器を加えたに過ぎなかっただけなのだ。
組曲の前章がすすみ「栄華の暮らし」を説く。「ここはふるさと不知火の海」を紹介。ここで鎌倉君の水俣病についての紹介と問題提起。水俣病がどんなに恐ろしいものかを。そして横田・渡辺二人による「幼い生命」の独唱。
この後杉本のナレーション。水俣病で家族を不具にされた老人が、水俣チッソ工場の社長に対する激しい怒りを、熊本弁しか話せないという彼のまるで信じられないような熱意のある、まさに俳優のような言葉。私はこのナレーションによって曲が提起したことが、強烈に印象付けられたと信じている。本当に熱意のこもった彼の言葉だった。
彼の ナレーションが終わると会場から拍手が湧いた。 勿論彼の怒りの表現の上手さを評価したからだろうが、 それと同時に水俣病患者の怒りを少なからず感じたからだろう。
次に男性だけのコーラス。水俣病が何によって起こったのか、そして今の世の中がどんなカラクリで進んでいるのか。ただ単に独占資本の勢いと一口に言うが、一体その言葉の持つ意味をどのような重みで我々は感じてきたのだろうか。その時その時に肌で感じることだけで、風呂に入れば直ぐにすっかり流れてしまうかのようになってはいなかっただろうか。
最後に我々のテーマを歌った。今我々は水俣病を知ったけれど、これを知ったからとて一体水俣病が我々の生
活でどのような意味を持つことになるのであろうか。水俣病をなくすために直接働くこともできないし、また水俣病患者の闘いを直接援助する力も無い。
カンパをしたからとて、その金額は微々たるもの。一体我々にとって水俣病という出来事は何なのか。同じ熊本にいる人でさえ水俣病をどれだけ知っているのか。
こんな我々に出来ることは自分自身の生活が破壊されないように、常日頃から自分の住んでいる地域の生活環境に注意し、少しでも早く悪点を取り除くことに気が付かなければならないだろう。そして多くの人々に我々がたまたま知り得たこの世の矛盾を、何らかの形で知らせることではなかろうか。
我々もただ単に今回の音楽祭典に何とか立派に参加したい気持ちから、自分たちの手で自分たちに関係のあるテーマを探し、組曲を作って歌おうとしたことが事の始まりだったけれど、今では発表に参加した幾人も、この歌の意図するところをはっきりと理解してくれている。
組曲の全てを歌い終わった。会場から多くの拍手を受けた。拍手の量から言えばこの祭典最大のものではなかったけれど、その拍手一つ一つに私は多くのものを期待してみたかった。
熊本県文化祭典においても多くの拍手を得たけれど、私の心は拍手の多さには余り関心が無かった。感動したからと言って、その後その人がどのように行動してくれるか。その人の人生にどれほどかの変化を起こし得ることになったのか。
私は一緒に歌った仲間に次のような提案をした。水俣病をもっと知るための機関誌「告発」を購読しようと皆に話した。「告発」の購読料年に千円はそっくり 水俣病患者への支援金となるのだ。水俣病に罹っていない人たちが、「水俣病を告発する会」を発足させて、その支援金集めのため発行しているのが「告発」なのだ。
だからこの「告発」は読みたいと希望した人に対して購読を止める時まで発行が続けられるという。一体今までにどれだけの本やパンフレットや機関紙が発行されただろうか。その中で幾つの資料が住民と直結した支援を、そしてその主となる報道機能を発揮しただろうか。こんなことを考えていくと私達仲間の一人でも多くが、できるだけ長い期間「告発」を読むことが、何よりも先ずやらなければならないことであり、また我々ができることの中で単純に評価出来ることだと思ったからだ。
私の提案に賛同してくれた人は約二十名ほどいた。そして集まった支援金が寄付を入れて約二万五千円程だった。私は驚かされた。通常このようなカンパで一人当たり五十円集めると評価される。残念ながら最近の若者は金を出したがらない。
例え人を助ける支援金であっても、自分に見返りのないと判断すると薄情なものだ。こんな普段の状況から考えると、カンパしてくれた人は水俣病に対する支援の趣旨を十分理解してくれたと思っている。
五月二十九日、三十日の二日間広島で開催された全電通全国音楽祭典に九州地方として参加することが決まった。九州から集まる仲間で発表する曲に「空と海との間に」が選ばれた。我々が歌声活動をする以前から、八代で音楽サークルを続けていた村本君が二部構成に編曲し、協力して指導にあたった。
当日になって分かったのだが、他県での練習は形ばかりのものだったように感じた。勿論春闘や選挙運動と続いたから、練習する時間が取れなかったのだろうが、ただ残念で仕方がない。このことがやはり全国の仲間にアピールするには物足りなさを感じる原因だったといえよう。
とは言っても全国の仲間に水俣病問題を提起できるのは意義あることだと、市内合唱団の仲間で話し合った。恐らくこのような種類の歌が仲間の手で作成され、歌い出されるだろう。全くの素人が社会提起の歌
を作り、自分たちで歌唱法を考え出しながら歌い上げ
たことに、労働者の「歌ごえ運動」において、私は多くの将来性を見出したい。
今まで歌ってきた労働歌が悪いのではない。もっと自分たちの生活に密着した点に立って解釈をし直してみる必要が十分あるように思われる。そして新しい感覚で歌おうではないか。「赤とんぼ」の曲が今までの歌い方だけで終わっていいだろうか。まして我々が目指す労働者の文化を発展させるためには、どんな歌い方がいいのか。皆なで歌うなかから討議し合えばよかろう。歌は心で歌うもの、我々の歌は我々の心にある。
我々の声は日常生活に支えられた肉体にある。明日を今日よりもより良い社会にするために、若者はしっかりした考えに基づいた行動を常に要求されるのだ。周囲の見せかけの悦楽に身も心も奪われてはなるものか。
人の生命が奪われて初めて対策が取られるこの日本の政策に疑問を抱かない若者がいるのだろうか。
『俺一人でやっても、何の足しにもならない』
という言葉をよく耳にするが、よく考えてみてくれ。そんな人が十人、百人、千人、そして万人集まれば、大きな河の流れとなるのだということを。明日のために、我々の子供たちのために。今我々がしっかりと、この世の中を見つめることが大切なのだと、自分自身に言い聞かせて記録を終わりにしたい。
この組曲を水俣病裁判闘争の決起集会の会場で熊本県内から集結した千人程の労働者の前で、市内合唱団員十五名の仲間が舞台に上がって発表した。このことは特記すべきことだと最後に報告しておきたい。
昭和四十六年四月記す
橋口成幸