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  〔前期五十三頁まで〕

 

一  小冊子と私

 

二     十七文字の世界

 

三  「わが投稿者たち」より抜粋

 

四  一歩前進を

 

五  「家族のように」

 

六   「エスペラントを信じて」

 

七   新しいエスペラントの輪

 

八   民間講師

  一 小冊子と私

           橋口成幸 (九通局分会)

 

 近頃通勤バスの中で本を読むことが多くなった。もともと私は本を読むのが苦手だったのに、朝の交通渋滞がひどくて一昨年頃からやむなくバスの中で読み始めた。おかげで読み方のいい勉強になった。昨年だけでも大小あわせて約五十冊程読んだことを最近知って少なからず驚いている。

 私の読む本といったら殆んど薄いものばかりである。よくバスの中で、気が遠くなるような何巻にもわたる長編小説を読んでいる人に会うと「何時になったら読み終えるのだろうか」とか「寝る時間はあるのだろうか」とか、あげくのはては空恐ろしくも「会社で仕事をしているのだろうか」などとあらぬ事が頭の中であふれ出たりする。

 

 他人がどのような基準で買う本を決めるのは知らないが、私の基準は次のようなことになる。

 第一条件は、総頁数が出来るだけ少ないことだ。何日過ぎてもシナオリが遅々として終りに近づかない本など直ぐに飽きてしまう。短期間で読破感忙に浸ることは、書籍愛好家のみならず精神衛生上欠くことの出来ないものだと考えるからである。

 第二は、活字がかなり大きいことである。揺れるハスの中で読む為に好都合なばかりでなく、早く読み終えられるからだ。五分間ほど読んでも次の頁に指がかからないとなると、何だか新開を読んでいるようでどうも気が乗らない。おまけにちょっと目を逸したら最後、読みかけの箇所を探しているうちに、いつのまにか溝の崩れたレコードのように読み直しているのに気がついてがっかりする。

 第三は、適当な挿絵が入っていることだ。これは、私が多少絵に興味を抱いているからでもあろうが、絵による表現は言葉よりも以外とすっきりした形で心の中へ飛び込んでくるからだ。絵が入っていればその分活字も少なくなっている。

 第四に、実は私にとって最も重要な理由になるのだが、本の値段が出来るだけ安くて、それでいて値段分は何かを得させてくれる内容を持っていることだ。実に貧乏人の私にはもってこいの理由である。色々格式張った云い方をしたけれど、簡単にいってしまえば、いまはやりの○○ブックスの類になる。が、これらの本から多くのものを教えられたのも確かな事実である。

 

 かなり以前のことになるが、安保条約改訂論議が盛んな頃だった。一般組合員の理解を深めさせようと、分会主催の安保学習会なるものが開催された。そこでの話題は反戦平和のあり方であり、その為に軍備が必要かどうかということであった。もう五十才に近いと思われるがっしりした体格の先輩達が戦争体験者の立場から戦争中における人間エゴの醜くさを説き、平和であることの重要性を力強く訴えた。寒いシベリヤの話や暑い南方の話。理由の解らないことで上官に殴られた話や、代表で同僚を殴らなければならなかった話。同じ会場の中で、このような話を体験者自身から直接聞くと、真に追って(もちろん実際の話なのだが)新たな感情が込み上げてくる。

 数人の話が終ったけれど残念ながら軍備に関する意見は、こう云っては失礼だが取留めの無いといった方がいい位の実に自信のないもので、ひとくちで云えば非武装中立に疑問を少なからず抱いている・・・という事だった。

 組合役員指摘の安保条約の問題点が何であり、どういう理由からそのようなことになるのか、その解決の為には何をどのようにすればいいのか等々については、殆んど理解されているようには受けとれなかった。


 約三百名の討論会参加者の中で、当日会場に安保条約に関する資料を持ちあわせている人はいないようだった。ここの職場は管理者層の職場で、労働組

合や政治に関心を持っている者は、管理者から目を付けられると思っている社員が殆どだった。

 役員の話を聞いて「自分達にも関心はあるが、条約文が解らないので意見の言いようが無い」というのが大方の先輩諸氏の、ある意味で見かけ上のいい分だった。

 私はそこへ二冊の本を手にして参加していた。当時書店に幾種類も並べられていた文庫型の単行本だ。その当時の単行本は一冊百八十円程度で買うことができた。私は次のような発言をした。

 

 「タクシーで帰る(当時のタクシー基本料金は確か百五十円だった)のを一回辛抱するか、パチンコを二百円分辛抱すれば、この種の本が誰にでも手に入るはず。自国防衛軍備よりも非武装中立宣言を行ない、隣国をはじめとする他国と友好条約を締結し、共存することに意味がある。軍事費用分だけ国内政策が充実出来るはず。

 本当に戦争を二度と起こしたく無いのならこの世から武器を無くすことであり、その為にはまず自ら武器を捨て友好を求めることだ・・・。」

 概ねこのような内容だった。いずれも手持ちの二冊と新聞・雑誌・組合機関誌の受け売りにすぎなかった。

 先輩達の発言にも正直いって呆れた。実際死ぬ目にあった戦争体験を持ち、自分の為には勿論のこと家族の幸せのためにも戦争反対の気持ちもないのかと思うとがっかりした。数年後に安保廃棄が再び話題になった時、私は国民文化会議から「安保マンガ」を数冊とり寄せて、友人や労働組合の部会に買ってもらった。

 書店には、またまた安保の本が以前よりもはるかに多く姿を見せたが、残念ながら週刊誌の売れ行きには到底及びもつかず、マンガ誌には店先を占拠慮されたままだった。この種の本にみんながどれくらい関心を抱いてるのか私には全く見当がつかず、一度職場で仲間絃に問いかけてみる気になった。

 

 その後いろいろの本をとりよせて仲間に販売して反

応を見るのが(悪趣味といわれればそれまでだが)私

の楽しみの一つになっている。自費でとり寄せるのでたいてい五部程度、多くて十部を越えることはない。送料は貰わず定価で版売する。

 教育問題では「お母さんの希望(百三十円)」と「それは青空の下ではじまった(百五十円)」をとり寄せ、女性中心にあたって買ってもらった。勿論定価で買ってくれる人もあるが、高いと云う人には値引きして売る。五十円で買うと云われればそうする。その人にはそれだけの価値しかないのだから仕方が無い。こんなやり方なので決して儲かることなどあり得ない。だからと言って送料と値引きを合わせても、せいぜい五百円程度の出費で済むからたいしたことはない。

 部落開放問題では「石川君は無実だ(百二十円)」をはじめ、一連の書物を取り寄せて売った。いずれも挿絵があり、活字も大きく、頁数も五十ページ程度のもので一時間もあれば読み終えられるものばかりだった。私にとっては、値段以上に価値のあるものだった。今になって思うのだが、このような小冊子から」色々なことを学び、自分なりの考え方も身に着いたように思える。

 情報過多の今日は、情報公害の時代とも云われている。その上かなり部厚い書物ばかりのようだ。確かに限られた範囲のものしか目は通せないが、だからといって、読まずに素通りして良いという事にもならないようだ。よく本をじっくり読む時間がないという人が多いようだが、こんな人にとって一時間たらずで読み終えられる、うまくまとめられた小冊子類は、案外価値あるものに成りつつあるのではないだろうか。バスの中で人生感は変わるのかも知れない。

今、私は「君が代は国歌か (百五十円)」という本を注文している。五部たのんでいるので到着次第四部を売ることことにるが、果して誰が買ってくれるか楽しみにしている。

 

    〔全電通くまもと文芸誌集 第二号〕

    全電通熊本県支部

    1978年7月1日発行

  二  十七文字の世界

    

          橋口成幸 (佐賀支店北分会)

 

 九州文芸に送った私のこれまでの原稿は、詩、短歌、俳句とエスペラント活動報告である。エスペラント語については、特に目立った活動をした場合以外に報告を書くことはない。詩は入社当時から関心があったので、社内誌や「全電通文化」等の詩欄をよく読んでいた。岩波文庫にある詩集を三十五~六冊一度に買い込んで読んだり、古本屋や古本市に出かけて詩集を探したりもした。だから詩には私なりの個性が現れていると思う。

 

 短歌に心をとめたのは、世界共通語エスペラントの翻訳文学で啄木歌集に出合ったのが最初であり、まだ十年にもなっていない。啄木の生活感や労働感、社会感に強く心をひきつけられたからである。しかしその学習は全く我流なので、いまでも手さぐり状態の域を出ていない。

 

 今私が心を奪われているのは俳句である。九州文芸の第一号から俳句が掲載されているが、そのなかに私と同じ佐賀県の辻さんと稲富さんの作品が目に入った。九文連の幹事を引き受けることになり辻さんと話す機会があった。俳句を折角勉強するのだからちゃんと指導してくれる人がいるといいのだが、というのが二人の意見だった。実は、鹿島在住の稲富義明氏が、もう長い間俳句をつくられていて名のある賞を受賞されていることを職場の仲間から聞いた。

 以前から俳句に関心はあったのだが、自分には作れない代物だと思い込んでいた私は、自分のすぐ近くに素晴らしい指導者がいることを知り、今回の学習機会を逃したら、私と俳句との距離は一生遠い儘で終るにちがいないと感じたので思いきって俳句に挑戦することに決めた。

 辻光子氏と私の願いは、稲富さんのこころよい承諾を待て一年前の平成二年十二月から始まった。学習会も八名になり、思わぬ迷惑をおかけすることになった稲富さんと私達の学習方法は、簡単な言い方をすれば往復ハガキによる通信添制講座だった。私達は一ケ月間苦心して二句の俳句をつくり、作った動機を書いて稲富さんへ送ると、わずか数日後に添冊済みハガキが戻ってくる。とりあえず一年間この方法が続いた。この間私は添削前後のハガキコピーを皆んなから集めて、ワープロ打ちの小サイズの会報を毎月作成し、相互学習のため全員に配布した。六ヶ月経過して私は四句ずつ提出し、さらに三ケ月過ぎると今度は十句ずつ提出した。作品の質の向上は遅々としている自分に対して量での挑戦であった。

 学習開始から一年たったので、今後の学習方法について稲富さんに皆んなで相談し、以階前から勧められていた俳句会誌の購読と句会に取り汲むこととなった。俳句誌『初蝶』には毎月八旬の投稿が認められているので本気でやる気構えがいる。私と辻さんを含めて四名が平成三年十二月から購読を開始した。句会は毎月第二土曜日午前中に、時間のとれる者だけでも集まって行なうことにした。四名にとっては合評会を兼ねることになる。

 

 何事も同じと思うのだが、自分がしたい事を自ら考えた方法で本気で取り組む時にこそ必要とさとされる個性が生まれてくると思う。量的には個々人の気構え次第だということだ。作者が意図した作品の価値は不変だと思うのだが、批評家によって価値が高められるというのは、芸術の世界のかなしくもあるが面白くもある点だろう。

 

 たった十七文字の重みをわずかではあるが解りかけてくると、世界で最も短い文章である日本の文芸

俳句の価値も少しずつ納得してくる。言葉選びに悩

みつづけるにつれて、かって取り組んだ短歌の残り十四文字を持て余しているから不思議である。ひとつの点が無限の広がりを持っている世界こそ、俳句そのものだと今私は実感している。

 

              〔九州文連会報〕 

       全電通九州文芸連盟

       1992年2月1日発行

 三 「わが投稿者たち」より抜粋

                              

           橋口成幸 (佐賀支店分会)

 

 我々に出来て又我々がなすべき事は、ひとつの作品を何回も何回も推行して仕上げるか、出来得る限り多くの作品をどんどん作り出すかのどちらかである。その上で他人の作品を鑑賞する目と心を養い、そして自分の作品を他人のそれと明確に区分し得る特徴を自らの手で生み出す事ではないだろうか。

 

 私はいま精力的に俳句学習をしており会誌『初蝶』を購読している。毎月約五百人の投稿者の約二千五百句を読む。ひとり八句まで投句を許され、最低二句は誌の後部に添削指導後掲載して貰える仕組みだが、一年前から始めた私の成果は現在三句掲載である。この一年間に三度四句掲載されたことがあり、まあまあといった出来である。あと二年程毎月八句投句を続ければ、おおよそ自分の力量も判別できるだろう。

 他に俳句に関する書籍を読み続けている。だんだん俳句の特徴が分かりかけてくると面白さが増してくる。八句提出するためには多いときは三十句、少なくても十五句程作らねばならない。作品の質としてはまだまだ見られたものではないが、三年たてば何とかなりはしないかと淡い期待を抱いている。

 

 九州文芸集は未熟な私にとって大切な作品発表の場であり、たとえ年一回の発行であろうとも欠くことの出来ないものに成ってしまった。私の願いは、第十号が一人でも多くの投稿者で埋まり、一層の愛着を持って仲間が投稿を続けてくれるような、更なる契機になってくれることである。

             

 

                  〔九州文連通信第六号〕

        全電通九州文芸連盟

        1993年3月1日発行

  四 批評小論 一歩前進を

               橋口成幸 (佐賀)

 

 第十号をひと区切りとして新しい九州文芸連盟の活動を展開することとなったが、はたして私たちに何が出来るのかとなると、これと言った確たるものが私には出てこない。お互いの作品に触れることによって得た感動や共感について、意見を交わすことから取り組んではということになる。

 私が他人の作品を正しく批評できるかどうか大いに疑わしい。でも、私の感想を述べることは出来そうだし同じ作品について別の意見を聞くのも、きっと勉強になると思う。

 そこで「批評」についての私の愚見を少し述べてみたい。是非とも皆さんのご意見も聞きたいものである。残念ながら「批評論」等というようなものを読んだ経験がない。強いてあげれば、新聞に週一回掲載される書評と書店で手に入れる出版図書紹介誌や新潮社の『波』 (年間講読中)くらいである。それでもざっと目を通すくらいで批評の何んたるかはまだ分かっているとは言えない。

 

 こんな知識で「批評」について意見を述べるのだから無茶である。ある雑誌で「文学作品に作者の解説は無用である」という一文を読んだ記憶がある。この意味の深さをまだ十分に私は理解できていないが「全ての芸術は批評家によって価値が生まれる」という認識を私は高校生の頃から抱いてきた。いま二人の感動や想いが同じだと言うことは、その二人が似たような環境や体験を過去にしたということの裏返しだと思うが、しかし完全に作者の意図をくみ取り得たかは不明である。従って読者が気を付けなければならないのは、作者が何を訴えているのか、その意図を推察する事だと思う。

 私が勉強中の俳句は僅か十七文字の世界であり限られた言葉の組み合わせで作者の表現が大きく変化する。簡単な言い方をすれば、ひらがな文字一つの

「置き換えや有り無し」で、作品の出来の良否が大きく左右されるということである。

 文連通信第七号の中の「私の俳句学習」から例を引いてみよう。

(自)凍星のきらきらきらと明日は晴れ

(指)凍星のきらきらきらと明日は晴れか

 俳句会誌『初蝶』の小笠原和男主宰の指導は「か」を一字追加(しかも字余り)したのみだが、明日の晴天を確信する期待感の大きさを思う気持ちの継続性が生まれ、さらに感情が浮かび出されたように私は感じる。字余りの持つ余韻の何かを学んだ。といっても、作品に対する指導者と私の感覚が全く同じだとはどうしても思えない。何故なら、師は現代俳壇の一角を担う人であり、私は駆け出しだからである。

 誠心誠意作者の意図を探り当てたところで自分の解釈を纏めていく。俳句・川柳・短歌等文字が限られた作品の言葉重なりは表現浅くする。しかしこの言葉重なりが詩の場合は逆に効果を生み出す場合が多い。言葉の繰り返しの回数が問題ではなく、作者の意図の表現遂行にどれだけ繰り返しが有効であったか、ということによってその価値判断が下される。

 詩は短い物語でもあるために、その筋書きの論理性が問われる。読んでいて辻棲が会わないと感じたら終りである。が並んだ言葉の順序を変えてみるとすんなり理解出来ることがある。しかしこんなやり方では作者の表現の意図と、かけ離れた理解をしているのではないかと疑問が残る。

 

 私の短詩型文学の批評は最初に作品を読んだ時自分なりに理解出来れば良である。そのうえで「なるほど」と領けるものであれば優である。逆に何度も読み返えさなければ意味がはっきりしないのはいただけない。それに言葉の流れ方というか調子が注目点となっている。詩の中の句読点の存在がどのよう

価値を生み出しているのか疑問である。だから改行のもたらす意味や修飾語の挿入位置に自然に関心が行く。特に空行の存在は作者の主張の大きな転換を意味していると受け取りたい。

 

 残念ながら随想については、これといった評価の基準が私の中にまだ存在しない。特に小説や戯曲等というものには手も足も出ない。でも、「そういうことか」とか「やっぱり」という感想が、読後生まれた場合は良としている。感情豊かで涙脆くてまるで浪花節派の私なのに滅多に小説で泣いたことなどない。

 四百字詰の原稿用紙で百頁もある小説の、どの部分が無くてはならないもので、どの部分が不要か判断する技量など微塵も持っていない。これから勉強である。先ずは九州文芸連盟の役員相互で合評をすることにした。が会員の方の批評も聞きたいものである。

 

 

                〔九州文連通信第八号〕

         全電通九州文芸連盟

       1995年発行

 まだまだエスペラント交友記

     五 「家族のように」

            橋口成幸 (佐賀退職者)

 

  希望退職をしてから2年が過ぎようとしている。二十四%も減額支給される年金に当然経済的な圧迫を受けるが、寧ろ脅威と言った方が正しい。三十五年間ものサラリーマン生活に終始した労働者にとって、これからの人生の楽しみを語る気力も湧いてきそうにない。僅かな退職金の頼みの綱の預金利息は限りなく零に近い。

そんな中で約六千八百億円の税金を補填しようとする住専問題には腹立たしさを通り過ぎて呆れてしまった。二次損失の補填には更に同額以上の税金が必要だと分かると頭に登った血はそのまま降りられず、ドス黒く濁って膿となるのではないかとさえ感じる。何もかもが自己責任など微塵も無い世の中だと云うことを今更ながら知らされた思いだ。平成維新を提唱する大前研一氏はこんな馬鹿げた話はないという。

 

 本体銀行の利益は預金金利引下げで急増し隠れ利益、否隠し利益と言った方が適切だろうが、七千億円の拠出は直ぐ出来るという。税金を投じてでも救済しなければ金融破壊が起きるなどと騎され続け、 ああ日本という国は一体何処へ行くのかと嘆く以上に空恐ろしくなる。マスコミに踊らされる国民も国民だが騙し続ける政治家や企業の出現は終わることがない。企業年金も崩れ、国民健康保険料も増え、 またまたネズミ講まがいの事件が起きた。踊る阿呆に見る阿呆の阿波踊りさながらの世情と言えよう。

  退職後十年経過したら何か仕事を見つけないと生計を維持出来ないと覚悟していたが、こんなことでは五年も持たない。身体も五十歳を越えればスムーズに動かない。下の子が仕事に就くのをひとつの区切りにして、思い切って会杜を辞めたのは、これからの人生を考え直すためだと改めて自分に言い聞かせた。三十五年間働いて故障の出た身体を少しでも修復出来るのはこの数年しかない。自分の生き甲斐について考え直す良い機会だ。

 そんなことも考え、既にライフワークとして捉えているエスペラント活動にのめり込んだ。念願の自作の普及用講習テキストも何とか自費出版したし、改良して来年春迄に第二版を出す予定だ。今年の世界エスペラント大会はチェコの首都プラハで七月下旬に開催され、更に八月下旬には第一回アジア大会が中国の上海で待っている。この二つの大会に参加を決めたのは昨年の秋だった。雀の涙の利息をあてにして預金しているよりも海外旅行で人生に弾みをつけられるなら、その方がどれだけ有益か分からないと考えたのも事実である。

 出来るだけ出費を抑えることにした。チェコヘ行くには福岡空港からの直行便がなく東京か大阪からは数万円余計にかかる。大阪出発の大会参加ツアーでは十一日閻で約三十三万円、勿論高級ホテル宿泊だが高すぎる。今までは何もかも旅行代理店まかせだったが今回は自分で旅行計画を作成した。

 

  十年来の文通相手マリアンヌさんはドイツのドレスデンの近くの陶磁器の街マイセンに住んでいる。ドレスデンからチェコのプラハまで特急列車で約二時問半の距離だ。数日間彼女の家を訪問したい。参加日数を減らし大会前にドイツ国内を旅行しよう。ライン河下りも入れてミュンヘン・ベルリンにも行ってみよう。ドイツの新幹線ICEを乗り継いで、ぐるっと一周してみるのもいい。でも旅費が幾らかかるか分からない。   

 そうだエスペランチスト(エスペラント語を話す人)に助けて貰って出来るだけ安上がりの旅行を計画してみよう。唯一の世界共通語エスペラントの効果を確認するのもいい考えだ。

 

 私は格安航空券の調査から始めた。大韓航空を利用すれぼ福岡から京城へ飛びフランクフルトに入れる。往復で約十三万五千円である。家族は反対したが飛行機は鳥ではなくて人が造った物体である。それが飛んでいるのだから、何かの原因でいつか落ちることもある。日本に居て横断歩道を渡っていても安全地帯で電車を待っていても、自動車が飛び込んでくれば死ぬ。生ある者はいつか死ぬのである。私はもう半世紀を生きてきたし、平均寿命で考えると、これから先二十年長くても三十年しか

生きていない。余程元気でないと七十を過ぎて一人での海外旅行など出来る筈がない。となるとあと十五年の余裕しかない。元気なうちに一人旅の経験をすることは私の人生にとって大きな価値がある。

 

  友人のアドバイスも受けたが「地球の歩き方」を買い込んだ。ドイツ編・チェコ編と鉄道の旅マニュアルである。旅行代理店でパック旅行のパンフを貰い名所等も調べた。鉄道旅行にはトーマスクックの時刻表が必要と聞き、幸い書店に並んだばかりの夏号を直ぐに買った。エスペランチストには民泊組織パスポルタセルボがある。格安又は無料で宿泊させてくれる実に有り難いシステムである。利用者は登録者の住所録を僅か千五百円で購入するだけで良い。

 

 早速取り寄せ旅行地の登録者を探し出し、私の旅行計画(A4判五枚)を郵送して受け入れを頼んだ。勿論以前から文通をしていたドイツとチェコのエスペラント語仲間へも手紙を出した。しかし私の計画より前に宿泊希望者が先約していたり、、私の旅行計画日に登録者が不在だった場合は自分で宿を探す以外にない。

 私は列車時刻表を基に訪問地への移動時刻を洗い出し、めぼしいホテルの所在や料金及び浴室・シャワー・トイレ・朝食の有無等を詳細に調べて、それらの事実調査も外国の相手に依頼した。五月十日に七名へ郵送し五月末迄に調査を終えて六月十日迄に返事を呉れる。

 驚いたことに何とミュンヘンからのファックスが五月二十日に飛び込んできた。民宿登録者のスベン氏は本人か地区のエスペランチストが観光旅行の同伴を承知したうえで調査事項の確認をしてきた。期限付きで返事を求めた私のやり方にだいぶ驚いたようだ。ファックスを送るなら電話からコンピューター内ファックスに接続替えするから先に電話を入れろとある。電話を入れようとしても初めてコンタクトする彼の在宅時間など分からない。受け入れてくれるというので詳しい調査事項の手紙を書いた。

 五月二十四日チェコの文通相手エバさんからの手紙が着いた。住居はプラハから四百キロ程離れているしプラハには知人もいないとの連絡だった。

 六月二日陶磁器の街マイセンのマリアンヌさんから二日間自宅に泊まれと招待が届いた。マイセン製陶工場もドレスデンのツィンガー宮殿も案内しようとの返事だ。六月五日フランクフルトのヒューレル夫妻から自宅宿泊可能の知らせと共に、自宅への交通順路を列車ホーム番号などを示して書いてよこした。私のスケジュールの詳細なのを見て驚いたようだ。

 

 六月十日チェコの文通相手エミル氏の依頼で大会参加のエスペランチストも宿泊する格安の宿を確保してやろうとプラハのクベータさんから知らせが来た。一泊朝食付きの二人部屋でひとり三十ドル(米)予約するなら三日分で九十ドルと銀行手数料の五ドルを送れとの指示である。銀行に問い合わせると送金に二千五百円電信では更に二千円必要だという。たかが一万円余りを送るのに四千五百円もかかるとは全く驚きである。そこで郵便局の国際郵便為替を利用した。

 送料は僅かの千円である。クベータさんには宿の依頼と送金方法を書いてファックスを送ることにした。がファックスを外国へ送った経験がない。そうだ国際電電に聞けば何か教えてくれるかも知れないと、0057をダイヤルした。相手の番号を教えれば接続テストをして呉れるというので数分待っていると、電話とファックスの兼用なので、女性の声の案内の後ピー音を聞いてから送信すれば良いと教えてくれた。

 二十四時近くに送信したが相手に届いたことを確認するために「注文メール受領の返事を送れ」と書いておいたところ、真夜中の二時ごろ返事が届いた。ドイツは日本より八時間早いので午後の七時頃に当たる。遂に六月十七日ベルリンのトルステン君(学生)から一泊無料宿泊承諾の手紙が届いた。駅から自宅への地図も同封されていた。何とか宿の確保と

エスペランチストヘのコンタクトは、今回計画の訪問予定地の全てでうまく行きそうである。鉄道でのドイツ周遊旅行には都合の良い五日間有効のジャーマン・レイル・パスがあり、費用も一等で二万九千円と安い。毎日百キロ以上乗れば損にはならないらしいがフランクフルトとミュンヘン間片道だけでも四百キロはある。

 

 七月十四日から二十五日迄の十二日間の旅である。無事帰国したら八月十六日から二十七日迄の上海旅行が待っている。この旅行も独自計画で旅費節減のため長崎から船に乗る計画だ。チェコも中国もビザ取りを自分でやってみた。出生地欄には本籍を記入し無職の場合はNONEと記入すべきことなど要領にはひとつも書かれていない。この文芸誌が読者の手に届くころには私は旅行中だ。将来は私もパスポルタセルボの登録者になりたいので色々なことを経験してくるつもりだ。

 

 七年前一度外国人を唐津市の自宅に泊めたが、現在北京大学へ留学中の韓国人青年チュエ君が一週間程前に京都から私を訪ねてきた。関西地方のエスペランチストと交流し、中国では購入できない日本で出版の書籍を鞄一杯買い込んで北京へ帰るのだという。二人は自家用車で福岡ドーム・福岡市博物館・キャナルシティ・篠栗南蔵院涅槃像と太宰府を見て廻った後、近くの須恵町宿泊施設に一泊して博多国際港から釜山へ船で帰って行った。単に世界共通語エスペラントを互いに話すというだけで、まるで家族のようにドイツの仲間が今度は私を待っている。

 

 

   〔全電通九州文芸』 第12号〕

    全電通組合員有志発行

    1996年発行

これがエスペラント交友記

   

六 「エスペラントを信じて」

 

          橋口成幸 (佐賀退職者)

 

 一九九六年七月二四日午前十時に福岡を出発京城経由でフランクフルトに着いたのは、その日の十八時十五分だった。まだ日本の午後三時頃の明るさだ。空港で私の帽子のエスペラント・バッヂを見つけた一人旅の日本女性にばったり出会い、彼女を出迎えた友人から、早速電話の掛け方と最初の訪問地エッシュボンヘの行き方を教えてもらった。幸先が良い話である。

 ドイツ国内を一週間程廻るので百マルクのテレホンカードを日本で買った。大きなリュックを背負ったブロンドの青年が、今日この街を離れるからと明日の朝まで使える一日乗車券をくれた。エッシュボンまで無料で行ける。これは幸先がいいぞと嬉しくなる。  

 手紙で約束した通り空港からマンフレッドに電話を掛けた。地下鉄への乗換駅でまた連絡すると、自家用車で近くの駅まで迎えに来てくれた。ホームで顔を知らない彼を探していると、、やや小太りの女性がこちらへやってきた。私の名前を確認したが、彼女はエス語を話せず駅の外を指さす。彼女について行くと BMWの運転席から髭面で大きな体格の男が笑顔で挨拶した。私を助手席に乗せると途中の小さな町並を説明しながらアパートヘ向かった。彼には持病があり階段の昇降は苦痛で、平坦な道路でも身体をゆすって歩いた。日本人の私を特別に宿泊させてくれたようだ。静かな区域にあるアバートの四階に彼の住みかがある。隣の棟との間には高さ二十メートル程もある植木が何本も植えられていた。

 

  集合郵便箱の鍵を開けて手紙を取り出しアパー

トの入口をキーで開ける。キーを使ってエレベータヘ乗り込み、家のドアを鍵で開ける。各部屋には勿論のこと風呂場にもトイレにも鍵がある。何と娘のマリアは七つのカギを持っていた。それでもエレベーターのカギは、ひとりで乗るのは危険だからと無かった。

 鍵の少ない日本式住宅を説明すると『日本には泥棒がいないのか』と笑って聞くので『泥棒はいるけど盗む物がないんだ』と答え二人で大笑いした。

 もう午後八時半過ぎ今の季節ドイツでは午後十時半頃まで明るいという。ん日本を出る前にできたら軽い夜食事を食べれるようにしてほしいと手紙に書いていたら、ハムとスパゲティとスープを御馳走になった。日本の夕食に比べると質素なものだ。

 

 私と同世代の彼は年金生活者だが、若い奥さんのコンスウェルはタイ人でパートで働いている。今は五番目の子供六才のマリアちゃんと三人暮らしだ。毎年寒い冬には奥さんの故郷タイヘ何ヵ月も脱出するそうだ。五年程前にタイで土地付き二階建て家屋を二百万円で新築したという。日本の物価高を話すとただ鷲くばかりだった。居間の二人掛ソファーをベッドに直して寝たが、翌朝には名前を知らない色々な小鳥が庭の木々にやって来たのを部屋の窓からのぞいていた。

 彼の案でライン川下りをするため自家用車でリューデスハイムまで送ってくれた。彼のBMWは相当古いが途中片道三車線のバイパス(アウトバーン)を時速百二十キロで飛ばす。反対側は都心部へ向かう車の渋滞だ。まるで軽自動車で高速を走っているようで助手席の私にガタガタ振動がくるが、彼の腕を信じるほかない。

 無事リューデスハイム乗船場について一人旅が始まった。乗船切符を買おうとしたら、レイルパスに使用許可のサインが無いので、近くの汽車駅に行ってチェックするように言われた。早速駆け足で百メートル程離れたところに見える駅に向かった。

 乗る船はあ中型である。これが後々問題になった。小学生の団体や中年・老人の団体も途中で乗り込み降りていく。乗客はデッキで思い思いに椅子を引き寄せライン川が良く見えるv場所に陣取る。隣の席のドイツ人夫婦が私のガイドプック「地球の歩き方」を覗き込みながら、次々に現れる古城を指さして教えてくれた。延々と続くプドウ畑やライン河畔のキャンプ場、途中霧が出てなかなか風情のある景色を堪能した。

 

 パック旅行の日本人団体も乗り込んだがローレライの場所に近づくと、人形も見ずに降船集合がかかりデッキを降りていった。この日は向かい風が強く目的地のコブレンツに一時間半も遅れて到着したのは大型遊覧船が優先して進むからだった。直ぐ折り返し途中で帰りの汽車に乗り換えなければならない。だがこの戻りの舟もまた遅れた。来る時とは逆風の中を戻るからだ。予定外の途中の船着場で船を降り最寄りの汽車の駅へ大急ぎでたどり着かなければ予定の汽車に乗れない。

 途中の船着場で降りタクシーを探したがいない。一台停まっていた車には既に五人ほど乗り込んでいた。駅ヘ向かって兎に角進まなければならない。目指す方向へやってくる自家用車を止めて駅まで乗せてもらおう。駆け出してから五分ほどして小形の車が来た。中には若い男女が乗っていた。道路の真ん中に立って両手を広げ車を無理やり停めさせた。英単語を並べて

『I want to go to next station. Please, help me.』

相手に言葉が伝わったかどうかは判らないが、駅まで急がなければならない。

 

 数回の言葉のやり取りをして、助手席の女性が後部席に移り私を乗せてくれた。おかげで最寄の駅にたどり着き『Koran dankon!』とお礼を言って分かれた。

フランクフルト迄は普通列車に乗り、検札に来た車掌が私の一等席切符を見て驚いた様子だった。その後、昨日初めて来た時と同じルートで彼の家へ戻ったのは午後七時過ぎだった。

 翌朝持参してきた電動髭剃りをコンセントに差し込むと同時に火花が走った。マンフレッドにその事を話すと、部屋の電圧を240ボルトに変更しているという。

 私の髭剃りは外国旅行での120ボルトまで使える筈だったのだが、故障の原因がわかった。しかしどこかで新しく買わなければならない。

 世界大会に参加するのならば、自作の本を会場で売ってくれないかと頼まれたが、旅行して回るし旅行カバンには入りきれないと断ったのは、残念なことっだった。

 

 奥さんと娘のマリアに別れを告げ、彼に駅まで送ってもらい、お礼を述べて前夜電話連絡がとれたスベンが待っているミュンヘンヘ向かった。日本で五日間有効のジャーマンレイルパスを購入してきたので今日の切符は買わなくてよい。フランクフルトからの

ICEは新幹線より素晴らしく、何よりも座席はゆったり乗客は私の車両に四~五名だけだ。窓から見えるのは広々とした緑の麦畑に牧草地、絵葉書で見た通りのあのレンガ色の屋根を持つ家々。南へ商へと走る列車内で食事を済ませ、ミュンヘンに着くとマンフレッドが作ってくれたドイツ語のメモをタクシーの運転手に見せた。

 韓国もそうだったが日本と違って客は助手席に乗り込む。短パンにスポーツシューズで角刈りのまるで映画俳優みたいにカッコいい二十歳代と思われる運転手は、カーステレオでロックをがんがん鳴らしながら、オープンカーの愛車ベンツを走らせた。紛れもない暴走族だ。行く先が病院だったので私を乗せると直ぐに『ドクター?』と聞いた。『ツーリスト』と応えた。

 日差しは強いが湿度が低く汗が出ても直ぐに乾き肌はさらっとしている。スベンは救急病院の受付オペレータをしている三十半ばの独身男性で、病院に隣接したアパートの一部屋を借りていた。今日は午後三時まで勤務だ。ビルの受付で渡されたメモには部屋の鍵を受け取り勝手に入るようにと書かれていた。だが部屋の鍵がどうしても開かない。後で分かったのだが、何とキーを二回転しなければ開かない仕組みとなっていた。ドイツ方式だという。

 部屋は豪華なワンルームマンションだが独身部屋はどの国も同じなのか、流し台とテープルの上に汚れたままのコップや皿が置いたままだ。もう午後一時過ぎ彼を待つ間に一泊するお礼にと全部綺麗に洗ってやった。小さな冷蔵庫の中を見ると殆ど空の状態だ。

  勤務を終えた彼に会ってみると、 背が高くてがっちりしたスボーツマンタイプ、昨年の夏自家用のベンツを百六十キロで飛ばして事故を起こし自動車は大破、背骨を折って約六ヵ月間この病院に入っていたという。趣味は小型飛行機操縦とスキューバー・ダイビングだ。今は自動車がないので遠出はできず、一緒に街見物を兼ねて食料を買いに出掛けた。

 スーパーで買った食料を一杯詰め込んだ大きなリュックを彼が担ぎ、バイオリン弾きなど大道芸人がいる街をぶらぶら散歩しながら戻った。青空の天気にも恵まれ午後六時に近いがまだまだ明るい。自転車で公園の近くの丘へ登り夕日が沈むのを見ようという。私はこの二十年自転車に乗っていない。外国人に比べると小柄な私を若者と彼は勘違いしている。 戻る十二時頃は寒いからと厚手のカーデガンを腰に巻いて出た。車右側通行のデコボコ石畳の上で 脚の長い彼の自転車を必死で追いかける。道に迷わないように辻々で彼は振り返った。素晴らしい英国式大庭園の公園では、沢山の人が休憩したり運動をしていて家族の憩いの場だ。公園脇の木陰の大テントはまるでビヤホール、広場では市民ブラスバンド

のビヤ樽ポルカの演奏にあわせて遊びにきた小さな子供が二人スキップを踏みながら踊っていた。

 丘の上に先着の若者が十数人いて、バイクの荷載せに酒を積んで売り歩く人もいる。ドラッグ使用者もヒッピーもやって来るとスベンが教えてくれた。もうかなりビールを飲んでいるらしく目も少し虚ろな、まるでロック歌手のように長い髪の若者が私たちに声をかけた。社交的なスベンは気軽に話を受ける。私達の言葉は何語かと聞かれて彼が説明した。日本からの一人旅で二回の手紙交換で今日初めて会ったのだと私を紹介した。話がはずみ周囲の人ともビールで乾杯した。遠くには山が見えず、沈む夕日が空全体を朱色に染めて宮殿や教会のシルエットが青黒く浮かび上がり、まるで版画の世界が広がった。昼間の暑さは何処へやら九時を過ぎると肌寒くなり腰に巻いていたカーデガンを着た。雑談は続き十時を過ぎても西の空は明るい。十一時になると風も少し出て私にはもう寒い。残った人達に別れを告げて自転車で丘を駆け降りた。

 

 アパートヘ戻ったのは十二時前、彼は急いでソーセージやハムでチーズを挟みオーブンレンジで手軽に料理した。流石独身慣れたものだ。物干し用の狭いベランダの小さなテープルで、太めのローソクを一本立て、ワインでエスペラントに乾杯した。コクがあって美味しいオレンジジュースも飲み、星空を眺めながら楽しい夕食が終わると、一人用ソファーを伸ばし

てクッションにし羽毛の寝袋へ入って眠りについた。

 翌日彼は午後三時から勤務私が目指したオーバーアマガウまで又一人旅となった。夕方荷物を取りにアパートヘ戻っても彼にはもう会えず私一人で夜汽車に乗るのだ。切符はレイルパスがある。別れの挨拶も今朝が最後、シャワーを浴びてパンとジュースの朝食をすませ感謝を述べてショルダーバックをリュックに変えて出発した。

 何処までも続く緑の麦畑と牧草地、そして向日葵畑。車窓から見える民家の出窓に沢山の花の鉢が並んでいた。写真や絵葉書で見るあの屋根色の小村を幾つか過ぎて、無事オーバーアマガウに到着した。リンダーホーフ城行きのバス停で三人連れの日本の女性に出会った。一人は音楽関係の仕事で演奏会より早めにドイツに入り一人観光の旅だという。五十歳前っだろうか私よりも背が高く白いドレスにサングラスの美人だ。あとの二人は七十歳位の母親と三十歳前後の娘さんで日程無しの気儘な二人旅を楽しんでいた。この親子は十年程前に二人だけでソ連を一ヵ月間も旅行したという勇者だ。私達は一緒に見物してまわった。私の目当てはオーバーアマガウの壁に描かれたフレスコ画だ。小さな町だが家々の大きな壁に色々な模様や風景や人物が淡い色彩で描かれていた。この街は手造り人形でも有名で、小さな人形でも五千円と値段は相当のものだった。

 

 ミュンヘンに戻ったのは午後八時だった。スベンの部屋で彼がコピーしてくれた音楽テープと夕食の袋(オーブン料理のホイール包みが十個と大きなジュース瓶が一本)を受け取った。私のために作ってくれたのだ。感謝の言葉を書いて電話機の下に挟み部屋を出た。部屋の鍵を封筒に入れしっかりと封をして郵便箱の奥へ突っ込んだのも彼の指示通りだ。

昨日買い物に行くときスベンに教わったように地下鉄を利用してミュンヘン駅に着いたのは九時過ぎ、 インフォメーションで発車ホームと時刻の確認を済ませ空いていた駅のベンチに陣取って夕食を始めた。

  二十三時発の夜行列車はガラ空き状態だ。一等乗車券の私は六人用の部屋に入った。何人か乗り込んだが私の部屋には誰も入ってこない。外国人に比べると小さな身体の私が十分に寝そべるほど座席は広い。マンフレッドやスベンが「一等乗車券なんて勿体ない。まして寝台など取る必要はない」と言った

のは本当だった。ドレスデンで乗り換えマィセンの

近くのコスウィグをめざす。一番長く文通しているマリアンヌさんが駅で到着時刻に待っているはずだ。

 ところがこの乗車は大失敗だった。途中のライプツィヒでドレスデン行きへ乗り換えなければならなかったのだ。スベンに乗り換えの事について確認していなかったし私の旅行日程表にも乗り換えは洩れていた。トーマスクックの確認不足だ。あと一時間でベルリンに着くという地点で気付いたが列車電話がなくマリアンヌヘ連絡出来ない。やっと車掌を見つけ出すと私の日程表を見せながら身振り手振りでことの次第をエス語と発音不十分な英単語を一方的に並べたてて説明し(多分車掌は全てを想像で判断したはずだ)、折り返す列車を教えてもらうことに成功した。

 

  約三時間遅れてドレスデンから電話を入れると、 エス語を話さない彼女のご主人が出た。私の名前とドレスデン駅と一時間後で再電話の単語を一方的に話して電話を切った。再電話に出たのは心配していた彼女で、駅の情報案内所前で午後一時に落ち合うこととなった。彼女もライプツィヒ乗換え情報を見落としていたようだった。

 人通りの多い場所に立っている私へ向かって初めて会う大柄でいかにもドイツ人だという身なりのマリアンヌが、私の名前を大声で呼びながらかけ寄ってきた。彼女にしっかりと抱きしめられ頬と頬が触れ合うと嬉しくもまた恥ずかしくもあり、何年も前から知り合っている姉弟のような二人の出会いだった。心から彼女に詫び荷物をコインロッカーに押し込むと街へ踏み出した。フランクフルトで壊れた髭剃りの話をして、新しい電池使用の髭剃り器を彼女の案内で買った。

 

 彼女の詳しい説明付きで戦禍で崩れかけた建物や

新しく建て替わるビル、なによりも有名なツィンガ

ー宮殿とその周辺を見物して廻った。街を一巡後レストランで昼食をとり、ぶらぶら買い物をした。コスウィグ駅で出迎えてくれたご主人ロルフにもお詫びをし家に着いたのは午後七時だった。スーパーと駅に近いモダンなアバートに住み、経費節約だと自家用車を持たない二人だけの年金生活だ。夕食後今回の旅や日本の生活について話した。一枚数万円もするであろうマイセン食器で食事をするのは宮殿での晩餐会のように賛沢に思えた。十数年前の東ドイツ時代のことだが、私は有田陶器市の写真(キャビネ版約五十枚)や小さな磁器(約三十個)を彼女に贈り、 彼女はそれをマイセン製陶工場のクラブ゙室を利用して、エスペラント語と日本の展示して市民と文化交流を図ったことがあった。

 

 翌日は三人でマイセンの製陶工場(ロルフはこの工場で資材関係の仕事をしていた)を訪問し、私は団体見学者の一人として工場内を見学した。その後街を一望できる高台の教会下のレストランに入って昼食をしたこの日は、当に楽しく素晴らしい感動の一日だった。過去に幾度か彼女を訪問した日本の女性がプラハの世界大会に参加するというので、その女性に会いに行く彼女と私は二人連れで二十日の朝マイセン駅を出発し、ドレスデンで列車を乗り換えプラハに向かった。ドレスデンから二等の六人部屋を利用したが、ニ人の会話を聞いて入ってきたドイツ紳士(初めて会った)もエス大会へ向かうという。エス語での雑談が三人で始まった。その紳士は貿易関係の仕事をしていて、八月の日本大会と上海大会にも参加するという。彼女とその紳士はプラハ駅に到着までの約二時間半休む暇もなく話し続けたのには驚いた。全くドイツ人は話好きである。

 

 世界大会開催地プラハの宿泊予約は文通相手のエミル・シェドラチェクを介して実行委員会に依頼し お金を郵便小切手で送った後ファックスで了解の知らせをを受けとっていた。開催日直前に参加を決め

たマリアンヌとたまたま同じホテルになったが、残念ながら行動は別々とならざるを得なかった。何よりも嬉しかったのは、奥さんの病気を気にしながら七十

キロも離れた地方から、わざわざ私に会いに出て来てくれたエミル(私より十歳程上で長く文通している)と会えたことだ。

 

 チエコとスロバキアに分裂後の生活は以前に比べて経済的に苦しく、ホテルを利用せず友人の家に泊っていた。彼と奥さん二人の少ない年金(毎月約二万五千円)のうち、長い冬場はストーヴのマキ代として四分の一が消えるという。雑談をしたり、彼の説明を聞きながら今日も晴れて観光客で溢れたプラハ街をぐるりと歩き廻った。日本を出てから今日まで晴天続きだ。レストラン入口のメニュー板はポーランド語・ドイツ語とロシア語で書かれていてチェコ語はない。彼は隣国の言葉を幾つもきっと語せるだろうが自分の国でレストランに入るのにチェコ語のメニューがないとはどういうことか、と分裂後の不満を私にぶちまけた。

 旧プラハ通りに来ると、昔はこの道路の両側に色々の店が並んでいて安くて美味い物が幾らでも食べられたんだと話した。自国で開催されるエス語世界大会の参加費を払えない彼が気の毒に思えて、結局まる二日間私は彼と一緒に街を歩いた。会場にいたのは彼を待つ間だが三年前に京城の世界大会であったアルーナスが声をかけてきた。自家用車を飛ばしてリトアニアから千キ日の道をやって来たという。互いに元気かと挨拶し、この次には君の国へ行くよと彼が言って別れた。最初私は彼を訪ねる計画だったがロシアのビザ取得が簡単に行かず諦めてしまったのだ。

 

 カレル橋を渡り旧市庁舎で大時計の人形仕掛けを見た。古いビルの上部に素晴らしい石像が並んだ通路自体は美術館だ。旧友のように二人並んで

ぶらぶら歩くのは私にとって何よりの思い出となった。モダンな店があると彼の誘いでハンバーガーショップに入り一番安いパンを一個ずつ買って食べた。彼にとってはきっと酒落たもてなし方だったのかも知れない。私は多少の資金を持ち合わせていたが年上の彼をレストランヘ誘う勇気を出せなかった。何だか失礼に思えたからだ。今となっては申し訳なかった。

 会場から電車とバスを乗り継ぐ朝食付きの二十階建てホテルは一泊三十ドル、冷房は効かず少し高いが昼間は居ないことだし仕方がない。スロバキア・スイス・ハンガリーの人にとっては、とてつもなく高かったようで一緒に朝食をしたスイスの老人は大不満でテープルに余っていたパンを上着のポケットに二本ねじ込んで外へ出た。七十五歳のスロバキアの小母さんは私の年金額にも驚いたが、そんな若さで何んで国から年金が貰えるのかと、飛び出さんばかりの大きな目玉で私に迫った。日本の状況から始まって会社の終身雇用慣例、賃金と企業年金や共済年金制度、前倒しの滅額年金支給等々、国家と言う組織しか相手にない彼女に理解してもらうのは大変な作業だった。

 

 二十二日早朝ホテルの食堂でマリアンヌに最後の別れを言えないまま、一人でドレスデンヘ戻り見れなかったツインガー宮殿の陶磁器の部屋と絵画の部屋等を見物した。大通りでパンとジュースを買い、店前のテーブルで食べていたときにハプニングに遭遇した。なんと二つ隣のテーブルに四~五名の若者がドカドカとやって来たのだが、すぐにセパードが近づいてきた。犬の後をジーパンの男が近づいて何やら話しかけた。パスポート提示を求められたらしく、ひとりの若者が上着の内側に手を差し入れたその時、犬をつれたジーパンの男はさっと左手を男の顔前に突き出すと、大きな声でそのまま動くなというような姿勢をして、ズボンの後ろポケットに右手をまわした。拳銃がある。

きっと私服警官だ。若者に手前の椅子に掛けろと言った。左手で腰の手錠を素早く取りだし椅子の肘掛けと男の左手を素早く繋いだ。びっくりして私はテーブルの上に置いていたショルダーパックを首に掛け、テープルを二つ後退してパンを食べながら眺めることにした。

 いつ来たのか女性警官ヘジーパン警官は若者のパスポート番号を読み上げた。彼女はトランシーバーで確認交信をしている。犬がもう一匹がっちりした体格の男の警官といる。取り調べはまだ続きそうだし、ここに居ると危険だと感じ素早くパンを食べ終わると街の見物を再開した。

 

 ドレスデン駅でベルリン駅への到着時間を受入者に電話連絡し、着いたのは午後八時。中央駅まで来ると旅行前に受け取ったいたアパートまでの略図を取り出し三っ目の駅で降りた。その夜は雨が降りそうでベルリンの街は薄暗く、肝心のアパートが見つからない。中庭付きのアパートの一室が今晩泊めてくれる大学生の家なのだ。確かここだと中へ入ったが階段は真っ暗で電灯のスイッチが何処にあるのか分からない。薄暗い中庭に出て大声で『トルステン』と名前を呼んだが返事はない。階段は急で荷物を上まで持って行けそうにないし下に置いたままでは盗まれるかも知れない。どこか他で電語しようと公衆電話を探しても見当たらず、石畳の上をガタゴトと旅行カバンを引っ張り駅の方へ戻って一軒の酒場へ入った。

 スタンドにはまるでギャング映画に出てくるような腕に刺青のある坊主頭の若い衆が三人いた。臆せずに略図を取り出しエス語で押し通す私とドイツ語の相手との会話はうまく通じない。何度かやり取りしていたが、一人が店を出て説明を始めると一緒に略図をたよりに行こうと云う。さっき覗いた家と同じ場所に来た。『I want to telephone.』という私の希望で店へ戻った。私の財布から彼がコインをひとつ

取り出し電話機に入れ発信音を確認して私に受話を渡した。『いま近くの飲み屋から電話している。家の前の道路に出て来てくれ』と頼み、 男に礼を言って道路出た。十メートルも歩かないうちに幾つかの影が先方の暗闇に飛び出してきた。

 歩道で皆と握手を交わし彼が重い荷物を四階まで運んでくれた。五人の若い仲間が集まっていたのだ。彼らは夕食をもう済ませていたが、私のためにステーキを焼いてくれた。料理が出来るまで世界大会と旅の様子を報告し気儘に雑談した。日本の武道が好きで柔道初段で剣道もやったことがあるという、 がっちりとした体格の男が料理してくれた。神戸地震・オウム教・日本の宗教・分裂していた東西ドイツ等々話題はつきない。

 ワインでエスペラント語に乾杯し食べたステーキは美味しかった。半袖シャツとジーパンに野球帽の私を見て歳を聞かれた。もうすぐ五十五歳だというと皆驚いていた。この十日程ずっとエス語ばかり話して来たので、多少なりとも流暢な会話が出来るようになっていたようで、何年前に学習を始めたのかと聞かれ二十年ほど前だと言ったら、さもありなんと頷いていた。だが実を言うと私のエス語力はほんの初心者に毛が生えた程度で文法も言い回しも知れたものではない。

 

 私のエス学習は三十五才の通信講座で始まり殆ど独習と海外文通とエス語雑誌講読が主だった。初めの四年間は熱心に単語も覚えたがその後は時々する文通のみだった。私がエス語だけで数日間過ごした経験は、つい最近の二~三年だけなのだ。それまでは全くと言ってよいほど会語経験がなかった。

《一人目》 十年ほど前に韓国の大学生チェ・マンウォン(現在北京大学に留学中)を二日間唐津の自宅に泊める。《二人目》 三年前に京城の世界大会で十年以上も文通していたリトワニアの若者アルーナスと日本大使館に彼の日本渡航ビザ申請のため真夏の二日間一緒に行動。

《三人目》 その年の秋韓国光州の文通相手を訪ねて三日間一人旅。

《四人目》 その時に初心者の若い小学校の先生と半日間博物館を見学。以前泊めたことのある韓国青年が九十六年春、突然京都からの帰りに福岡の自宅に立ち寄り二日間一緒に行動。

 つまり過去には僅か五回、しかも数日間の会話経験しかなかった のだ。今度の旅行で初めて知り合ったが次の人たちである。

《五人目》 フランクフルトのマンフレッド

《六人目》 ミュンヘンのスベン、

《七人目》 コスウィグのマリアンヌ、

《八人目》 プラハヘ向かう汽車の中で偶然あったドイツ人、

《九人目》 チェコのエミル

《十人目》 トーゴ人、

《十一人目》 スイスの老人、

《十二人目》 スロバキアの小母さん、そして

《十三人目》 ベルリンのトルステンと五人の若者

 

 ベルリンの五人のなかで三人が良く話せた。会話の上手なチャーミングな女性のエス歴は僅か二年だった。私が寝た場所はタタミ一枚ほどのスペースに寝袋だった。シャッワーは畳半分ほどのスタンド式で、翌日朝食を外に出て友達の部屋で御馳走になり一時間ほどツォー駅の周辺をトルステンに案内してもらって駅で別れを告げた。フランクフルトまでICEを利用し夕方の飛行機で七月二十六日無事福岡へ戻った。帰国から約一ヵ月後の八月二十日から二十七日まで上海の第一回アジアエス大会へまた一人で参加した。

 上海空港でタクシーを待ってといるとジーパン姿の若者が私の帽子のエスペラントバッチを見つけて近づいてきた。やはり大会に参加するアルゼンチンのアティリーオ《十七人目》だという。八月初めの日本エス大会に参加し、上海へも招待講師として大阪から一人飛んできたという。到着が

午後六時を過ぎて、空港ではもう両替出来ずに私も彼も困っていた。

『ここでは時間外労働をしないんだ』と言えば『こりゃあ大変な国だ』と彼は両手をあげた。半時間もタクシーを待って一緒に会場のシルク・ロードホテルまで行くことにしたが、夕方のラッシュで魯迅公園の北側のホテルまでバイバス利用でも一時間半かかった。

 空港で個人タクシーの運転手が一人二千円、二人なら三千円でどうかと誘ってきたが、我々の実際運賃は僅かの十九元(一人四百三十円)だった。ホテルは五つ星なので立派だが食事無しで一泊二十三ドル(約二千六百円)。しかし多くの中国人や東南アジアや社会主義国の仲間達は大学寮を開放した安い四ドル~十六ドルの宿泊所を利用していた。

 アティリーオと同じ部屋で一晩泊ったが彼は三十歳の独身でエス語の他に十ヵ国語を話し、世界中の大会や合宿の講師として出掛けてエス語だけを使用する直接教授法で指導することを仕事にしていた。私にとっては良い一日講師で(彼が大いに判読したと思うが)少なからず会話に自信がついた。会場ではいかにもアルゼンチンの男らしいシャレた赤と黒の衣装を着こなし、ハンサムでかっこよく写真撮影に引っ張りだこだった。

 二日目の朝二人でホテルの食堂に出掛けた。彼は菜食主義者で肉を食べない。私は肉入りを食べようと 皿を指さして何肉かと紙に書かせると猫や蛇だ。勿論彼は顔を背けた。やっと鶏肉とお粥・野莱・饅頭・クッキーを食べた。二人で六十元(一人三百六十円)まあこんなところだろう。

  その後は四日間ウズベキスタンの背の高いアナトリー《十八人目》と同室だった。サマルカンドの平和友好エス会会長で話すのも上手く、彼のエス会の展示物の多くをエス語を使って色々な国から集めていた。冗談が上手で二人で過ごした時間は実に楽しかった。

 私の目的は、十年近く文通している若い小学校教師(英語担当で日本語もある程度わかる)タン・ヨン《十九人目》に会うことだった。彼は上海から約一日行程ほど離れた島に住んでいる。五日間ずっと私に付き合ってくれた。同室に彼を泊めようと大会事務局と掛け含ったが駄目だった。政府からの指示が出ているのだ。市中では外国人と同泊出来ない旅館も結構ある。質素な身なりの彼は明噺で実にハキハキしていた。

 中国には五十六の民族があり使用言語は輻輳し八十種類を超えるという。彼は大学で中国語を専攻し北京語・上海語・広東語の使い分けも自由に出来る。地方から参加したエス語があまり上手くない仲間と私との会話を、エス語を介して彼が通訳した。上海語は独特でタクシー運転手の言葉がほかの地方の者には通じない。まさに共通語が必要な国である。

 裏町の小さな食堂で何度も食事をした。一人僅か十五元(百八十円)程度だ。繁華街のレストランヘ入る。メニューの品物がどんなモノか、タン君には想像できない。日頃こんな店に入らないからだ。外国人は二倍の料金を払うのが中国の規則だ。だから前もって彼に幾らかの金を預けておいた。六品程注文した料金は約百元(千二百円)四人分の量で二人では食べきれなかった。

 

 有名な観光地豫園のすぐ近くの市民市場へ出掛けた。畳一枚弱の木枠の仕切り場がひと単位、申請して金を払えば誰でも店を出せる。日用雑貨・衣服や駄菓子屋が多い。有名な書画店に入り水墨画用の墨を二本(三十元)と墨絵の教本を一冊(十五元)別の店で筆四本(三十六元)を買う。彼が支払ってくれたお陰で半額で済んだ。

 大会の開会式・閉会式・幾つかの講座やイベントも彼と一緒に参加した。残念だったのは十五ドルの晩餐会に彼と参加出来なかったことだ。横に座ったのは中国人の女性で大学の助教授だ。韓国の若者た

ちが六人が同じテーブルに着いた。

 日本人男性に食事をしながら話してみると、 隣の席の男性の名前は橋口さんという。私と同じだ。互いに自己紹介をしてまた驚いた。九十六年の三月私はエス語紹介の小冊子『橋渡しの言葉エスペラント』を自費出版し、この冊子を日本の全エス団体と指導者たる著名な方々へ、指導を仰ぐために贈呈していた。これを受けて激励の手紙と資金援助をしてくれたのが、今私の隣に座っている橋口英雄氏だった。エス語に祝杯を上げ活動の激励を受けて記念写真を撮った。懇親会に出席している中国人も学校の役職や会社の管理者ばかりの様だった。

 最後の夜はアナトリーとその日知り合った名古屋から参加の若者(彼はケチケチ旅行だと言って一日四ドルで宿泊していたし、神戸から貨物船で香港に上陸したという)と私との三人で夜の街へ見物に出掛けた。小型タクシーは料金が安いが冷房は効かず窓を開けるのも手回しだ。ここで走っている自動車の九割以上は日本で廃車として野積みされているものより悪いのではないかと驚いた。通行人を避けるためクラクションをバンバン鳴らし車の間をぬって走る。まるで神風タクシーだ。暑さをしのぐために冷房の効いた店を見つけて品定めらしく入り暫くして外へ出る、こんなことを繰り返して暑さをしのいだ。

 夕食は裏町を一時間ほど徘徊して、八時過ぎにやっと小さな一元飯屋に入り、、白飯とおかずを夫々皿一杯、ビール三本の合計は三十六元(一人百四十円)何という安さだった。

 店のなかにはテープル一個のみ、老主人が歩道に茶舞台と銭湯の座椅子に似た小さな腰掛けを出してくれた。写真を撮ってくれと娘さんに頼んだが、多分デジタルカメラのシャッターを押したことがないらしい。家から出てきた兄さんにシャッターボタンを教えてポーズをとると 両手を伸ばしてカメラを私たちに近づけてきた。慌てて押し止めると暫く待てという。家の中へ声をかけて出てきたのはご老体で

ある。参った。その時通りかかった中国人の若者が快くシャッターを切ってくれた。こんな思い出ではパック旅行では絶対に残らない。

 

 八月二十六日十時発の客船長崎上海号で日本へ帰ることにしていた。上海も晴天続きだったし帰りの船旅も気に入った。翌日午後三時に長崎へ到着、 汽車で博多へ戻り帰宅したのは八時過ぎ、念願のエスペラントの旅は全て終わった。

 今回のヨーロッパ旅行で民宿制度(エス語を語す人達が無料か安い料金で互いに宿泊させるボランテイア制度のパスポルタ・セルボ)を体験するのが私の目的だった。日本を訪問したい外国人は沢山いるのに宿泊費が高すぎて来れない。日本人の登録者はいるのだが残念ながら九州には数人しかいない。私は近い将来登録したいと考えている。そのために自分で実際に民宿システムを利用してみようと一人旅を計画したのだった。

 

 ビザの取得や相手との手紙・ファックス交換・ドイツ国内乗車券の購入等々何もかも一人でやり、おおいにためになった。トーマスクック時刻表を始めて手に入れ詳し、書いた旅行日程表を相手に送ったことも、 確かに手助けになったと思う。世界大会参加の費用

は全部で約三十数万円、上海は約十五万円だった。  

 三年前の退職時私はこの二十年間をなんとか生活出来れば後は福岡正信提唱の自然農業をやりながら過ごせばよいと考えていた。残念ながらこの三年間頼みの預金利子は限りなくゼロに近づき、前倒しで四分の一も減額支給された年金も、十年後には毎月の生活が出来ない程度に落ち込んだ。たたみかけてくる悪政のため残念ながら私の目論見に十年の誤差が生じてしまった。

 退職して習い始めた水墨画は将来のエスペラント旅行で東洋文化紹介に役立てようと現在も続けているが、二年間習い続けた太極拳も表装も、資金不足と消費税五%の圧力で、残念ながら九十七年四月から中止した。アルバイト求職状況も三年前と一変している。支出を抑える

ほかはない。そんな状況なのに二千年にはベトナムで開

催の第二回アジア大会へ行こうと無謀な夢を描いている。サラリーマン生活と早期決別したこの三年間私の人生は充実していた。白分の人生は自分で決め悔いのない一生を過ごすことが私のささやかな願いである。私の人生を豊かにしてくれた外国のエスペラント語仲間に深く感謝し、あと十五年夢を追いかけてみたい。

 

       〔全電通九州文芸』 第13号〕

       全電通組合員有志発行

       1997年発行

 最後のエスペラント交友記

 

  新しいエスペラントの輪

 

           橋口成幸 (佐賀退職者)

 

  第七十二回九州エスペラント大会を福岡市で開催するように決まったのは去年の夏だった。もう少し本格的にエスペラント語普及活動に取り組もうと私が考えていたのもその頃だった。私が住んでいる粕屋郡須恵町役場に出向いて、一般社会人の九十八年度生涯教育プランにエス語学習を採用して欲しいと頼み込んだが、町民からの希望がなければ無理だと良い返事はなかった。そんな時に福岡市の中心街にある福岡県国際交流センター研修室を無料で使用出来ることを知った。但し国際交流事業の個人賛助会員として年間二千円を納入する条件がある。

 福岡市中心の近代ビルの一室を只同然に使えるというのは何という魅力だろう。私は毎月第二と第四の金曜日午後一時から表装技術研修会に出席するため、バスで福岡市内へ掛けている。その研修会当日の午前中は暇だし十時から十二時迄の二時間「海外文通教室」を開くことにした。

 私自身のエス語習得方法は海外文通が主で五回程の外国旅行で外国人とのコンタクトにはエス語が有効で十分機能することを体験していた。若者や留学生を始め外国人が多く集まる有名なイムズビルの八階の「レインボー・プラザ」へ出掛けて非営利団体のサークル活動紹介ボードヘ「海外文通教室開講・無料」の案内も掲示し昨年九月から活動を開始した。さらに自費出版のエス語普及用テキスト(無料配付用)『橋渡しの言葉エスペラント』を持ち込んで来場者が自由に取れる棚に置かせて貰っている。

 このテキストは毎月四~五十部程持ち去られている。十月に紹介ボードを見たと二人の男性から

電話があった。一人は四十才位で英語と韓国語を話し現在フランス語とドイツ語を独習中だという。二年前に他所で開催されていた学習会に二度出席したが、 会場が自宅から遠いこともあって学習継続を断念していたという。エス語の辞書を持っており、韓国のエスペランチスト(エス語を話す人)との文通に挑戦し、 エス文で埋められた手紙を受け取っていた。しかし手紙の内容がよく理解出来ず、まだ返事を書いていないという。僅か二回だけの受講では無理もない。早速その手紙を読む手助けをし、遂に彼は短いながら自分で手紙を書いた。勿論私の力の及ぶ範囲で書き方の指導をした。この手紙は今年の四月初めに発出され既にその返事が韓国から届いている。

 彼は単語の意味を調べながら内容を理解しようと懸命である。残念ながら仕事の都合で毎回は出席出来ないでいる。二番目の男性は私より少し年上で フリーで翻訳を仕事としており、英語を話しフランス語もドイツ語もやれるようだ。エス語学習は十年程前に大阪在住の頃、チェ・メトード(エス語のみ使用して教える学習方法)で六ヵ月の初級学習を終え、 その後中級へ進み輸読会(本を互いに読み意見を交わしながら学習する会)にも参加した経験があった。従って彼にとっては私の指導など全く必要ない。

 オブザーバーで参加するよう案内したところ再学習のよい機会だと辞書を片手にエス本を読んでいる。趣味であるチェスの指導書や解説書を外国から取り寄せたいという。チェスは海の向こうが本場だ。日本エスペラント学会にチェス愛好者の所在を問い合わせたり、世界各国の代表者住所録のエスペラントチ

スト年鑑を私から譲り受けて手紙を書いたりした。残念ながら今年の二月から仕事が忙しくなり今は顔を出していない。

 

  十二月に現れた男性は何と九十才、中学校の英語の先生が最後の仕事だったという。須恵町で開催

のエスペラント講座に参加したいと電話があった。私の案内がまずくて直接須恵町に福岡市中心部の天神から来れるバスが無かった。昨年暮れは寒さが厳しくその後教室には顔を出さず遂に今年の春を迎えた。手紙で連絡すると一月末に目を患い入院後やっと三月に退院したばかりで動けないという。回復を待っている。実に残念だったが、ご高齢の情熱にはただただ驚かされた。

 サークル紹介ボードのおかげて住宅情報誌「リビング情報」から電話が入った。活動について一週間後記事にしたいという。宣伝のチャンスだ。約一時間にも及ぶ取材と写真を撮られ、新聞発行直後に反響があった。四人の女性から学習希望の問い合わせがあった。

 最初の女性はエス語に以前から関心があり 是非学習したいとの意向だったが連絡直後にボランティア先で足を捻挫し現在自宅療養中である。二人目は三十年程前にエス語を知り、市販の学習書を買って多少独習したが一度も講習会は受けていない。最近時間に余裕が出来たので是非本格的に学習したいとの希望だった。実に積極的でこの人にも基礎的な学習指導をする必要はないようだ。

 エスペラント語は文法も発音も簡単で容易に理解できる。ただ初期の段階で正しい発音をしているのか、また文章の理解が正しいかについて既習者が適切なアドバイスをしてやれば後は十分独習できる。

 私の指導方法は、基本的な文法さえも全生徒を集めて講義などしない。まず私が作成したテキストを読むか本屋でエス学習書を立ち読みするか、図書館より借りだして読むかすれば、それで基礎を十分理解できる。文字の発音と文章記述上の注意等を最初に説明し後は個々の質問に答えて解説する。従ってエス語の特徴と基礎事項を理解(暗記ではない)出来た人にはすすんで文章を書いてもらう。つまり学習者の夫々の能力に応じて個人指導をするのが私のやり方である。学習意欲の無い人の進度は遅いが積極的な人はどんどん先へ進む。ノルマも宿題も何もない。私は単なるアドバイザーである。この女性は若い頃英会話を学習しホームステイ経験もある。

勿論英語での海外文通をしたこともある。早速今年の九州エスペラント大会をのぞいてくれた。エス語だけが飛び交う講演など彼女には理解出来なくて困惑したことだろう。しかし参加していたベルギーの女性や韓国の青年からエス語で話しかけられた経験は きっと彼女のよい思い出になるだろう。いま彼女はエス語だけで手紙を書く練習をしており、私は四回目の手紙を待っている。誤りの指導は手紙に細かく書くが教室でも彼女の質問に答える。彼女は既に外国人文通相手を検討中で、学習開始から三ヵ月後の六月末には本当の海外文通が始まるだろう。連絡をしてきた残りの女性二名は教室には現れなかった。

 

 近くの街に住んでいる四歳上の私の姉に、良い機会だからと学習を始めないかと勧めた。私同様に英語を話せないが私が意図した学習方法の効果を確認出来るのには、むしろ彼女のような学習者が好都合である。彼女に発音練習用のカセットテープを作った。庭の草取りや炊事時間にラジカセで聞いてい

るようで、これからどうなるかが楽しみである。

 

 四月初めに一人の若者が前触れもなく教室に現れた。手にイムズビル八階に置いていた無料配付のテキストを持っていた。現在司法書士の受験勉強中で五月に一次試験があるという。エス語には大学時代に興味を持ち辞書とエス語創始者ザメンホフ博士の論文原書を古本屋で手に入れていた。独習で文法も理解し本も十分読める力を持っているようだ。この人も大学で英語・フランス語と韓国語を習得していた。五月の試験に合格すれば十月の二次試験が待っている。今は猛勉強中だが東京へ出ればエスペラント関係の本部があり十分学習できる。

 九州エス大会前の一週間私はエスペラント展示を福岡県国際交流センターのロビーで開きエス本(マンガ・絵本・小説・短歌や俳句のエス訳等)・ポスター・絵はがきなどを展示した。先輩が世界七十ヵ国

から受取った絵葉書と切手の展示をしてくれた。勿論新聞やテレビなど報道機関に取材や催しの宣伝を依頼しNHKのテレビニュースと西日本新聞からの取材に成功した。数日展示場へ出向きエス語の説明をしたり宣伝資料を配付した。

 スエーデンから留学中の高校生に学習書を開いて説明したら、発音も難なく出来るし驚いたことには和訳も出来る。通常数ヵ国語を話す外国人にとってエス語は易し過ぎる言葉だと改めて実感した。また熱心に学習書を見ている外国人がいたので『英語を話しますか』と訊ねたら『英語は苦手だ』という。いろいろ話してみると彼はカナダ人でフランス語が母語なのだ。英語が苦手の彼は日本のある女子高校の英語の教師(ALT)だという。何という日本の英語教育

なのだ。エス語の中にフランス語と同じような単語もあるので、初めて見るエス語なのに結構理解出来るようだ。

 

 エスペラント展示の成果でまた二人の生徒が現れた。定年直後の男性で元国語教師(塾では英語講師をしていたという)と、父親がエス語を話していたという女性である。男性は九州エス大会にも半日参加した。大会当日私は役員として雑用に追われていたので、この人と前に報告した女性への手助けをベテランのエスペランチストに頼んで講演の概要を逐次通訳してもらった。

 

 五月にまた新人が現れた。若い男性で原発反対の活動の中で知り合った北海道の仲間がエス語を話し、北海道で開催された地方エス大会に、たまたま参加する機会を得た。その後エス語に興味を抱いて十日ほど学習指導を受けて帰福し学習書で独習していた。彼は辞書を持っておりエス会話を学びたいと言う。私の教室では初心者を対象に学習する「海外文通教室」なので会話練習はやらないが、手紙を自由に書ければ日常会話位は何とか出来るようになることを私の経験から説明した。

 二週間後に仲間男女二名を連れてやって来た。二人とも二十代なかばでちょっとひ弱だが、見ると真面目そうである。話を聞けば自分達のグループでエス語を学習したいので指導して欲しいという。無料で指導できるが私には日程の都合があり結局毎月二回同じ金曜日の午後五時から六時半まで、同じ場所で六月から開始することになった。

 このグループは「自由民権運動ラジカル九州」を名乗り「日本は明治からやり直せ」と主張している。福岡でまだ旗揚げして数ヵ月なので仲間も少ないが 活動内容の一つにエス語学習を掲げている。エスペラント界には若い世代が不足している。エス語の話を聞いて価値あるものだと理解しても実際に何の利益があるのかと問われた場合に、これこれだと直ぐに見せられるようなものは残念ながら少ない。

 

 私がエス語学習を始めた二十年前は当時の経済発展状況から推測して、簡単に海外旅行に行ける機会が多くなると思った。外国へは旅行会社のおきまりのツアーではなくて特徴のある旅行をしたいと考えた。その希望は思ったより早く実現した。二年前には今までに会ったことも文通したこともないドイツのエスペランチストヘ私の旅行日程表を添えて手紙を送り数日問快く泊めてくれた。一緒に食物をスーパーへ買い出しに行き、美術館や教会を訪ね街を一望する小高い丘のレストランで食事をしたことは、 私にとって本当に夢のような出来事だった。十年以上も文通を続けていたマイセン近くに住む女性を訪ねて二泊、念願のマイセン製陶工場を見学し、二人でプラハの世界大会へ参加した。プラハでは大会参加費も払えないという文通相手が、わざわざ私に会いに遠方から来てくれ一緒に市街を案内してくれた。

 

 アジアの第一回エスペラント大会参加のために

海へ行き長年の若い文通相手(小学校英語教師)と数日間裏町のバザールをも見学、二千人も利用できる大衆食堂に入り、水墨画の絵筆を買ったことなど詳しくは第十三号で報告した通りである。この二つの旅行のためビザ取得から現地での交通手段の選択やトーマスクック時刻表の調査など、全て自分一人でやったことこそ私の財産となった。

 日本の政治も経済も教育もすっかり奇怪しくなった昨今、その歪みを聞き流して過ぎてゆく人もいれば、 流れを変える行動を何か始める人もいる。前述の若者達が単に目標を掲げただけの四人組小集団で終わるのかどうか予想はつかない。しかしエス語が日本に入ってきた明治以降に大杉栄や千布利夫を始め多くの革新的な人達が揃ってエス語を学んだ時代があった。エス語は外国人と自由に情報交換できる「危険な言語」だと警察に弾圧された歴史もある。また佐藤栄作渡米に抗議して焼身自殺を図った由比忠之進がエスペランチストだったことは一般の人にはあまり知られていない。

 

 学習教材はコピーが多く 私が作成したテキストは一部百二十円で、発音練習テープも一巻百四十円の実費である。買うかどうかは全て受講者が決める。エス手紙の添削には六十円の郵便書簡を使用する。返信用の書簡を一枚同封し手紙と一緒に私へ送ればよい。生徒の自発的な質問に答えて講座が始まる。海外文通の利点は相手の言葉を正しく理解し自分の意見を誤解の無いように明確に伝える方法が身につくことである。全く見ず知らずの他人を信じ話題を交わすことは、その人の人生にとっても社会にとっても大切な行為である。言葉の違いによる差別をなくし平和と平等を願ったザメンホフ博士のホマラニスモが、エスペラント語誕生の原点であることを知るだろう。困惑する現代の青少年にこそ海外文通が必要だと私は考えている。エス語は外国語ではなく第二国語である。

 本誌にエス語宣伝のため交友記を約十年間書き続け

てきたが残念ながら問い合わせ者はひとりもいない。学習希望者もなかった。一回の発行部数を五百部としても十年間で六千部、原稿用紙で二百枚を超える。将来ぜひ一冊に纏めたいと思っている。長期間多大な頁を私に与えてくれた幹事の皆さんに心から感謝し今回でこの「エスペラント交友記」を終了することにしました。エス語に興味を抱かれた方は 私までご連絡頂ければ資料をお送りします。

 

       〔全電通九州文芸』 第13号〕

        全電通組合員有志発行

        1997年発行

 八 民間講師

                         

          橋口成幸 (佐賀退職者)

 

 数年後に迫った二十一世紀社会に対応するため、国際教育について何らかの取組を始めようと、学校教育機関へ文部省が指示を出したのは確か九十六年の春だった。具体的にどの様な取り組みが教育現場で計画され実施されるのか全く不明だが、この様な改革とも言える事項を遂行する為には、上に立つ人間の見解が将来を大きく左右する。学校においては校長のやる気ひとつで、実はどんな取り組みも可能なのだ。ただ上部のお墨付きがなければ積極的な行動は何にもやれない、むしろやらないのが殆どだと言うのは、教育部門に限ったことではない。

 将来の大いなる会社NTTでさえ、退職までの約三十五年間に於いて、過去に例のない計画を進んで実行する勇気のある機関長に残念ながら皆無といってよいほど出会わなかった。

 

 二番目の子供が中学生のとき、PTA役員の引受手がなくて自らすすんで正役員になり、学年新聞部を担当した。その年五回発行したが、学校側窓口の教頭の言葉は「そんなに発行しなくてもいい」だった。また年度当初に学年行事のテーマについて会議を開いたが殆ど意見がなかった。

 この年佐賀県唐津市で世界ヨット大会が開催される予定だった。唐津市の全中学校に呼びかけて、大会会場となる海岸のゴミ掃除を学級当たり三十メートルずつ引き受けてもらい、日曜日に毎月一回清掃し海岸管理をしてもらってはどうかと提案した。

 一年を通して管理の良くできた学級には市から感謝状を送る。自然破壊が進む今日、平気でゴミを捨てる行為を止めさせるのには良い案だと考えたが、

賛成する人は数名だった。

 数回学校へ出向き部活状況を見て廻ったが、電灯のない暗いコンクリートの廊下に座り、壁に向かっ

て卓球部の生徒が練習していた。どこかの学校ではベニア板の卓球台を沢山作って校庭に持ち出し、卓球部全員が台を使って練習している記事を新聞やテレビ見たことがある。休眠品を集めて販売した金を貯めて台(ベニア板)を購入しようと提案しても、休眠品を生徒たちが持ってくるのを嫌がるとか、集まった物も良いものがなくそう収益は少ないという理由で教員が反対だった。

 

 PTA新聞の原稿もパソコンを一台購入して生徒の新聞部に作成を依頼してはどうかと提案したが案の定だめだった。僅か一年弱のPTA任務で、活気のない、開かれていない、将来展望の少ない現在の学校組織を知らされた経験がある。

 こんな経験から、文部省が音頭取りをしても、教育現場では殆ど何も行われないと推察はしたが、国際語エスペラントの存在を若者たちに知らせようと活動している私は、直接学校へ出向き「国際教育について」の取り組みを提案しょうと考えた。

 

 今私が住んでいる糟屋郡須恵町近隣の地域を当面のターゲットにした。まず小学校に対して、国際語エスペラントについての話を二時間程度させて欲しいと「国際交流の支援」を学校長へ申し出た。校長も教頭も「現在の授業時間枠ではそのような余裕はない」と言う。また「教育委員会を通さなければ自由に

はなかなかできない」と言う。「統制教育から抜け出してユニークな教育は出来ないのでは」とこちらも食い下がる。ついに須恵町の教育委員長へ提案の説明に出掛けた。

 「国際教育について何かをしなければならないと思っているが、近々校長会議があるので時間があったら話してみよう」というのがささやかな手応えだった。

 この頃私は銀行のロビーで「国際語エスペラント文通展」を開催し、西日本新聞社へ取材の手紙を書き数日後には写真入りで掲載してもらう事に成功した。中学校長も「余裕の時間がない」という返事だ。高校は修学旅行中で校長不在だった。昨年暮れの話である。

だがまだ三月まで再挑戦の時間がある。成果の見えない目標にむかって・・・

 

 

                   〔九州文連通信第十号〕

         全電通九州文芸連盟

         1997年発行

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