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  〔後期最後まで〕

十七  世界初への挑戦

十八  その後の私(二)

十九  その後の私(三)

二十  エスペラントは生きている

二十一 中国(桂林・武漢) 旅行断念

二十二 その後の私(四)

二十三 世界大会がやってきた

二十四 エスペラント語と英語

二十五 言語問題に挑む

 エスペラント奮戦記(五)

 

  十七 世界初への挑戦

 

 

          橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 2002年度私の学校へのエスペラント活動は遅々としていた。新教育実施で改訂された中学英語教科書からエスペラントの六文字は消えたが、高校英語教科書にエスペラント語の創始者ザメンホフ博士の伝記が紹介されていることがわかり、その教科書使用の学校をさがしてみると、九州では北九州市に1校と熊本市に2校のみ。私個人で取り組める活動範囲ではなかった。そこで『竹の花』4号で報告した「21世紀地方行政にのぞむ新教育」をインターネットを利用して全国自治体へ提案する計画を考えた。宛て先をネット検索してみると自治体のホームページ一覧表が既に作成され無料公開されていた。

 直接市長や町長への市民からの提案箱へ投書するか又は教育委員長ヘメール提案した。その数は約500件を越えた。更に県知事へも同様なメール提案を行った。提案趣旨を簡単に述べて私のホームページのアドレスを案内し内容を読んでもらおうという趣向である。返信メールを10数件受け取ったが、なかには県内の情報欄に転載し各学校へ周知するという好意的な返事も届いた。

 

 こんなとき名古屋エスペラント会が記念事業として独白の懸賞論文を募集した。内容は「平成14年中において一般の人々に対し エスペラント語に関する情報を知らせたり、マスコミヘ投稿したり、エス語学習を呼ぴかけたりした資料を対象とする」もので、 実際には掲載されなかった資料も応募できるというものだった。私は前述の全国自治体と県知事へ行ったメール提案資料(新教育とエスペラント語)を提出し、小中高校へ発送してきた国際語エスペラント授業提案の文書や『竹の花』4号も資料として提出した。審査の結果

幸いにも一席2名のひとりに評価を受けたが、特に『竹の花』の内容が評価されたことは喜ばしい限りだった。

 他の活動と言えば4年程前から視覚障害者エスペランチスト(エス語を使用する人)の支援を始めていた。外国の人と交信したいという要望も聞いていたのでネット上で送受されるエスペラント語を読み上げるプログラムはないものかと調査してみた。 視覚障害者がインターネットで交信したり、ホームページを覗く場合に画面に現れた文字を読み上げるソフトを使用する。世界で有名なジョーズ(JAWS)やスクリーンリーダー等があるようだ。しかし、 それは主要民族語(英語や仏語や独語等)を対象にしているだけで人工語エスペラントを読み上げるソフトは世界中にまだ無いこともわかってきた。

 

 各国の状況をもっと知りたいとエス語で作成されたインターネット掲示板に次の数行の呼ぴかけをした。 「私は視覚障害者の支援者です。情報を集めています。ご連絡をお待ちしています。」という簡単なものだったが一週間もしないうちに視覚障害者七名(イタリア・セルボ・フランス・ウクライナ・アメリカ・ロシア・スェーデン)と支援者四名(ブラジル・ブルガリア・マケドニア・ベトナム)からメールが入った。各国の点訳図書情報や種々の情報を交換するため『世界視

覚障害者情報ホームページ』〔見本版〕(仮称)を作成したいという私の計画を述ぺ、コンタクトしてくれた人達に五つの質問を送った。

  ・点訳方法は日本と同じ6点方式ですか。 ・点訳図書を持っていますか。 ・視覚障害者の中で何人くらいパソコンを持っていますか。 ・メール交信を行っていますか。 ・インターネットのエスペラント語をどんな方法で読んでいますか。

 

 この回答も2週間程でやってきた。私の日本語ホームページより数段見事な出来栄えの全文エスペラント語のホームページを作成している人には驚かされ

た。「いろんな情報が欲しいならこちらの機関誌にあなたのメールアドレスを紹介してやろう」という人もいた。しかしアメリカに移り住んでいるアルゼンチン出身の女性は孤立していて殆ど交流がないと報せてきた。  視覚障害者の世界エスペランチスト団体(Libe)の副会長からも情報が入り、自分で手掛けたホームページが未完成のままになっているので出来れば私にかわって作成して欲しいという希望も告げられた。

 かなりの数の視覚障害者たちが外国では自由にインターネットを利用し、イタリア人は自国語版の音声合成ソフトの発音で80%は内容を理解できるという。発音方法がイタリア語とエスペラント語は類似しているという事実にも納得させられた。しかしイタリア以外の多くの人たちは購入したソフト(JAWS)の英語機能を利用して、 エスペラント語文章を判読しているようだった。

 やはりエスペラント語を読み上げる無料ソフトがあるという報告は入ってこなかった。パソコンの普及状況や福祉政策の充実などから考えて、ヨーロッパでは無料のソフトが見つかるのではないかという私の推測は見事に外れた。私は早速音声合成ソフトの作成を日本のエスペランチストたちに提案することにした。幸い知人で関西在住の山野敏夫氏が日本語読み上げソフトを独自で開発し無料公開されていることもわかった。昨年五月に私を含めた五名により検討グループが発足し、インターネットのメーリングリストでソフト仕様について検討を続けてきた。

 ウィンドウズで動く基本ソフトが無料で提供されることがわかり今年二月ついにその音声合成ソフト (ESPTAP)が山野さんの手で完成した。暫く運用テストをした後,、まず日本語版を公開し六月にはインターネットの掲示板で世界ヘエスペラント語版が公開された。外国の視覚障害者支援について大きな動きが進んでいた。十数年前から関東在住の熊木秀夫氏とペトナムの教師ノク・ランさんとの間で、エスペラント語がきっかけとなり積み重ねられてきた   「ハノイ市に点字図書館を建設する計画」は昨年ジャイカ東京の資金援助を正式に受けられる運びとなり本格的な支援が展開されていた。そこで今年の四月ベトナムから元大学教授のランさんが来

日し約一ヵ月間日本の点字図書館を見学し、併せて視覚障害者の実生活に触れるため各地を巡回した。

 福岡では私が彼女の案内役を勤めることとなった。来日前から彼女とメール交換をして希望を聞き訪問先として福岡県立福岡高等盲学校・福岡点字図書館(県立)・福岡市立点字図書館・福岡県盲人協会・県ポランティア総合センターを選び、事前に訪問して見学と事業説明をしていただくための了承を取り付けておいた。 彼女の来日直前の三月にエスペラント語版の音声合成ソフトが完成したので外国の視覚障害者数名へ運用テストを依頼していた。教師ランさんが来日中の四月下旬「テスト成功」の報告がペトナムから届いた。外国で最初の運用はなんとペトナムで始まった。ペトナムでは過去の米国との戦争で使用された枯れ葉剤の影響等で視覚障害者が多いという。子供が五人いればその内のっ三人は眼が見えないか弱視だという家族もあるらしい。視覚障害者の専用学校は全くなく普通の子供と同じ学校へ通う。従って小学校へ入学する前に点字を読むことも、六点で点字をつくることも家庭で身に付けなければならない。

 教師ランさんに同伴した私のぶっつけ本番のエス語通訳が始まった。ランさんはフランス語・英語の教師だったが退職しエス語も加えて退職後も教鞭をとられているが日本語はわからない。私は日本語とエス語だけで、まさに私たち二人の共通語はエスペラント語のみである。事前に入手した資料を全てエス訳して彼女に渡したが福岡高等盲学校では校長自ら学校説明をしてくださり約40分間の面談となった。その後は教師の案内で針治療実習を見学して講師の説明を聞き、各施設を見学し生徒たちの寄宿舎も見せていただいた。

 ペトナムでの視覚障害者の地位は低く学校教師に成れないという。眼の見えない教師が働いている日本の実状を知り尊敬と感動の言葉を述べられていた。是非とも留学させたい生徒がいるが良い方法はないかなどという相談もあった。私にとってエス語翻訳もそして通訳も大変な作業だったが、今回の訪問で日本の事情や点字図書館の様子を知ることができたことは、またひとつ価値ある体験が残ったことになる。

 福岡市立点字図書館は通常の図書館の一階のコーナーに設けられていた。担当者の話では視覚障害者の外出には介助者が必要で、点字図書館が孤立した建物だと そこへ案内したあと帰宅するまでを介助者は待たねぱならない。しかし点字図書館と通常の図書館が同じ場所にあれば待っている間に介助者も自由に図書を閲覧できることになる。もっと重要なことは一般の人にも視覚障害者への関心を持ってもらう啓蒙活動にもなる。私が事前打合せに来た時小学生の子どもが三人小型六点プレートを使用して点訳体験をしていた。福岡市図書館のよう な合同施設は全国でも珍しいという。

 

 熊木秀夫氏ヘメールで報告したところ是非ペトナムでこのシステムを提案したいとの返事だった。  私の「世界視覚障害者情報ホームページ」作成は今年の六月末に暫定版(見本版)を完成させた。全24項目中の7項目について一部分公開し私にコンタクトした外国人約十名から意見を聞いた。この種の情報共有については歓迎の意見が寄せられたが、視覚障害者に対するアクセシピリティを考慮して欲しいという注文があり、この勉強を新たに始めることとなった。

 英語版の解説情報を提供できるというメールが外国から届いたが私は英語を理解できない。早速ネットに詳しい山野さんへ連絡して紹介して貰った日本語のホームページを覗いてみた。管理者へも質問メールを送った。マウスを使用しない視覚障害者は当然ながら直接キーを操作する。そのキー操作の約束ごとをパソコン歴三年生の私はまだのみ込めていない。とりあえずジャンプ先を表現する短い案内文を各情報のページ毎に盛り込み、ひとつの項目についての情報量を少なくし、項目毎にできるだけひとつのぺージが開くような構成にやり直し始めたのは八月はじめ、苦心の末にやっと十月中旬に形だけ整った。また情報提供していただいた福岡市立点字図書館をはじめ五つの機関に対してホームページヘの情報掲載について了承を貰うため、その提出資料作成に十月末迄かかり、全機関を訪問して説明し了承を得られた。

 ホームページの再構築を続けて行くなかでパソコンの動作が鈍くなってきた。空きエリアが少なくなって作業に支障が起きたのだ。何度かエリア整理のデフラグをかけてきたが処理時間は長くても一時間半で済んだものが、なんと十五時間もかかったから驚いてしまった。旅行やエスペラント大会参加を全て取り止めて蓄えてきた資金をつぎ込んで九月末とうとう新しいパソコンを買い作業をなんとか再開できた。

 人数は少ないが、 世界の視覚障害者とその支援者のエスペランチストたちは私のホームページ完成の連絡を いま待っている。

 

 外国人エスペランチストの来日も最近多くなった。四月のベトナムの教師ランさんの後に、韓国の主婦サーロさんは近所の友達(四人家族)を連れて京城から夏休み始めにやって来た。10才と8才の二人の男の子がいる友達家族は北九州のスペースワールドヘ行くという。到着日は生僧の小雨だった。NHKと美術館と日本庭園を案内し、市内に戻って二人の子どもとご主人をレストランに残して女性二人を案内して急いで買い物に出掛けたが、日本の物価が高いことに驚いていた。お土産にと折り紙や小物を幾つか買ったようだ。ギターを弾く長男のためにサー

ロさんは音楽に関する置物を探していた。見つけたバイオリン弾き人形は2800円。すぐ諦めて何も買わずに店を出ようとした。私はギターのピックを紹介して10個ばかり選んであげた。僅か二泊だったがエス語を話さない友人家族は、初めて出会ったサーロさんと私、そして宿泊させてくれた平山晴記氏や歓迎会の料理を作ってくれた福嶋由起子さん、更にエス語仲間の武藤たつこさんとの親しげなエス会話に驚いていた。

 

 次はフランスから世界旅行中の若夫婦がやってきた。今年六月にフランスを出てロシア・中国・韓国を経て釜山から博多埠頭へ九月中旬にやって来た。いつも外国人訪問者を宿泊させてくれる平山晴記氏と出迎え

た。二人ともすらりと背が高く、20キロもありそうな重たいリュックを一つずつ、それだけが彼ら

の荷物だった。二人の名前はフランス語発音が難しいので多分韓国人の習慣を真似て付けた呼び名だと思うが、男性はスーノ(SUNO太陽)女性はルーノ(LUNO月)だという。こちらもその方が分かり易くていい。到着日の案内は私の担当、早速街へ出て最寄りの銀行で円への換金を行った。50ドルのトラベルチェックを四枚取り出したが銀行員は小銭を混ぜてくれない。私が旅行したドイツではこんなことは無かった。やはり日本はまだ世界に慣れていないのだろう。スーノがポケットから韓国紙幣を取り出して円に出来ないかという。大きな銀行でないとだめだとわかった。私も又勉強である。

 

 さあ昼食だ。何が食べたいのか聞くと日本料理だという。安くて旨いオニギリにしようと訪ねた店は月曜日で閉店だし今夕六時には皆と歓迎会が待っている。サンドイッチでもと喫茶店へ入った。セルフサーピスでそれぞれ好みの菓子パンとサンドイッチとドリンクを貰う。カウンターには空き椅子は二つのみ。ルーノが他のテープルから椅子を持ってきて三人並んで座った。二人が話すのはフランス語・英語・スペイン語とエス語を少々で日本語はわからないし、私は日本語とエス語のみ。こんども共通語はエスペラント語のみである。彼らの世界旅行計画はふるっていた。四年前に計画を立てそのために働いた金を蓄えて 今年六月に二人とも仕事を止め15ヵ月の世界旅行に出た。友人に計画を話したら「エスペラント語を知っていたら便利だ」と聞いて昨年十月に学習を始めたというから驚く。短期間学習なので単語数も少なく発音はフランス語訊りに時々なる。

 平山夫人と料理の材料確認をしていて「エルボはあるか」とルーノが言う。私の頭に単語が浮かばない。絵に描いてもらうと菜っ葉の絵だ。本当の発音

は「HELBO ヘルボ」だが最初の文字「H」を抜かして発音していた。何とか短い時間でもよいから国際交流を子どもたちとしようと平山氏の骨折りで氏の子どもが通う春日北小学校を訪問する手筈がととのった。

 通訳ということで私も加わりPTA役員の平山夫人と四人で一時限目の授業出掛けた。前日作成の大きな名前カードとフランス国を人の顔に見立てた地図を持参した。口にあたる場所は首都パリ、そこから少し喉に向かった場所ツールーズに二人は住んでいた。二人の名前は太陽と月だと紹介したが生徒たちはどのように受け取っただろうか。

 

 今は九月。今月誕生の生徒に起立してもらって二人がフランス語で私がエス語で、 生徒たち皆は英語で「ハッピィ・パースディ・トゥ・ユウ」を歌った。最後に二人が誕生日の子どもたちと祝福記念の握手をした。お礼に生徒たちは文化祭のため練習中の歌「翼をひろげて」と「ドレミの歌」を歌ってくれた。生徒たちは世界旅行中のこのフランス人男女のことを忘れないだろう。二人は習字授業も初めて体験し漢字四文字がお土産となった。

 気憾な二人は農業体験をしたいと四国の人に出国前にメールで頼んでいたようだが、その後の日程遅れでとうとう行けなくなり急遽福岡周辺の農家でホームスティとなった。熊本の阿蘇火山を観ずして世界旅行はないと話すと出掛けて行った。10月19日着メールにはタイ経由でベトナムにいるとの文字が並んでいた。

 もっと私を喜ばせてくれたのは中国からやって来た若い観光案内人ヌ・ホンヤンさんだった。十月中旬京都亀岡市で開催された第九十回日本エスペラント大会に参加後十三日に春日市の福島由起子さんを訪問した。前述の平山氏も福島さんも「パスポルタ・セルポ」というエスペランチストたちの民宿リストに登録しているのでいつでも外国からの訪問者を受け入れている。このシステムを利用してホンヤンさんの約二ヶ月間の日本旅行が始まった。

 来年は日本語を勉強するため来日したいと中国で日本語学習を数ヵ月間経験済みだがまだ初心者の段階である。エスペラント語は今回の旅行のために急遽幾つかの会話を覚

えた程度で初心者そのものだった。覚えている単語の数も少ないが文章を作るのもまだ難しい。しかし実に熱心で私たちに質問してはノートに単語を書き留めていた。二十一才のひとり娘を二ヵ月間も日本旅行させる両親の決断を尊敬

するが、殆ど言葉が通じない状態でやって来た勇気ある彼女にも感心した。明るい娘で中国映画「初恋のきた道」(4号で坂井敏子さんの映画評あり)の主人公にとても似ていた。赤い民族衣装をまとった彼女の可愛らしい姿はまるで映画の中から抜け出してきたヒロインさながらに思えた。

 全部で15箇所程を訪問する予定だが二ヵ月後には日本語もエス語も間違いなく上達して故郷の貴州市のご両親の元へ帰るだろう。福岡の次は宇部市だがここでの受入れ者は私の知人でご主人は中国人夫妻とも中国語を話せる。きっとホンヤンさんはひと安心することだろう。

 

 いま学校では英語授業が歓迎されているが 英語教育を先行した韓国では学習に遅れる生徒が問題になっている。きっと日本もこの道を辿るだろう。世界共通の言葉の存在は単に通じると言うことだけでなく 話す人々が皆同じ条件下で学び対等に意見を交わすことに意義がある。国境を意識しない新しい世界の環境が整う21世紀、一生に一度位は外国に行けるかもしれないと想った私の古い時代は終わったと痛感した。修学旅行や観光旅行や新婚旅行で誰もが外国へ行く。外国人の就労が日本でも自由になれば瞬く間に職場でも地域でも外国人と触れ合う機会は信じられないほど増えてくる。

 会話は発音が最も重要だがローマ字発音とほとんど同じで簡単なエスペラント語がもっと注目を集める時代になろうとしている。私が提案し山野敏さnが作られた無料の音声合成ソフトは世界で初めての試みであり、私の「世界視覚障害者情報ホームページ」も初めての試みとなる。パソコンを避けていては世間に取り残されてしまう時代となった。既に小学校でも

パソコン授業は行われているし自家用車のようにパソコンのない家庭はもうすぐなくなるかもしれない。

 

        〔九州近畿合同文芸誌『竹の花』 第5号〕

         旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

                       2003 年日発行

  十八 その後の私(二)

                             

         橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 昨年の暮れに小学枚の同窓会へ出席した。私が通った福岡市御供所小学校は、数年前に近くの二つの小学校と統合されてもうない。五年生と六年生の二年間当時田舎だった福岡県糟屋郡香椎町から転校した私は、都会っ子の活発さに驚き恐れをなして実におとなしい子供だった。それが五十年ぶりの再会となった。小学校一年生からずっと同じクラスの気が合う拾名ほどは何回も集まっていたようだが、初めて参加した私を思いのはか皆歓迎してくれたのに感謝し、ほっと胸をなでおろした。

 

 少し時間に遅れた私は空いている席を探し座り込むと同時に隣の席の女性が開口一番こう言った。

 「橋口さんは、ちょっとも変わっとらんね!」

 出席者の中の三~四名に幼い頃の面影を見つけたが肝心の隣の女性が誰だかわからない。皆の声が飛び交う中で互いに名前を呼び合うのを待った。やがて名簿が配られ、旧姓梅崎玉枝さんだとわかり、皆が彼女を呼ぶのに「お玉さん」という理由も理解できた。下戸の私も多少の酒を酌み交わし会場を提供してくれた店主の友人が、会費以上の御馳走を準備してくれたことに皆が感謝した。

 

 という懐かしい話だが、その後の話が殊の外楽しく子供の頃に戻った爽やかなものとなったことを今回どうしても報告したくなった。

 ことの起こりは、映画好きの篠木玉枝(現在)さんから贈られてきた一本のビデオテープである。内容は近作映声「戦卑のピアニスト」紹介のドキュメント番組録画だった。同窓会で映画は好きだが映画館へ最近ほとんど出掛けたことがないと話した私への案内である。実に良く筋道を追い時代背景をも紹介したもので、すでに映画館で鑑賞済みの姉に私が合わせられるほどの内容だった。そんなことについて返事を出したのだが、ついでにパソコンでのイン

ターネット使用についても誘ってみた。機械に弱いので無理だと拒んでいた彼女が、私のワープロ打ち手紙に奮起したのか、仕舞っていたワープロ操作に挑戦を始めたのだ。

 きっと四苦八苦したことと想像できるのだが、手紙をなんとファックスで送ってくれた。その手紙には宛て名も差出人の名前も記されていなかった。これが契機となり「宛て先も差出人もない手紙」は、書くことがもともと好きだという彼女の人生を操るることとなった。

 まだ本題ではない。ビデオテープを受け取ったお礼に私は『竹の花』四号を贈呈した。エスペラント活動についての報告は難解だと言いながら数回読み返してくれ、教育の現状にも理解を示してくれた。そして最も私を驚かせたのは、坂井敏子さんの映画評論が実に素晴らしいという彼女の感想だった。映画を観ていない私のために、ずっと以前から保存していたという「初恋のきた道」のビデオテープを私に貸し出してくれたのだ。彼女からの手紙には「全ては坂井さんが言い尽くしてあるから、私のいう事はありませんが、今の日本では、もう、おそらく作れない種類の映画でしょうね」と書かれていた。さればとて早速ビデオを観ると言葉通り坂井さんの映画評論の的確さに驚き、幾つかのデータをシオリから頂戴したとしても、玄人の域にある文章に感嘆するほかなかった。

 

 映画原題は「我的父親母親」 (橋口意訳…私の父母)、英字タイトルは「ザ・ロード・ホーム」(故郷への道)、邦題「初恋のきた道」と成っている。まさに坂井さんが指摘しているように「なんと座りのよいし邦題に成っているかが良く理解できて、文化の違いを心でも感じた。

 辺境の村へやって来た若い青年教師に対する村娘デイの純愛は、吹雪の中を彷徨う姿に増幅させられてゆく。二人が結ばれた後、息子に教鞭を取って欲しいと願いつつ亡くなった父親のことを母ディかち聞かされた息子が、街に戻る日の朝の一時間、村の子供たちを学校に集め、父親がつくって子供たちへ教えていた詩の朗読授業をする終盤の展開に、映画の進行とともに

育んできた感情を誰もが最高潮にさせられて仕舞うことだ。

 まだご覧に成られていない御仁はタオルを、少なくともハンカチを準備されてご鑑賞されんことをご報告しておきたい。私が涙したかどうかなどということは聞かないでほしい。

 春休みで姉の家に戻っていた姪と、今春中学生となる姪の娘に内容を何も告げずにビデオを観るよう勧めた。案の定三人、そう女三代で涙したとのことだった。時には心洗われるこんな映画が良いと思う。「なんで戦争なのか」としか言いようのない大人たちの醜態がどのように生まれ出るのか、子供たちには想像も出来ないことだろう。大人はどう答えればよいのだろうか。

 彼女へお礼の手紙を書いた。私のために書き出しくれた映画の中の詩二編に、エスペラント語の訳を考え一緒に添えて送った。

 人 世に生まれたら 志あるべし

 書を読み 字を習い 見識を広める

 字を書き 計算ができること

 どんなことでも 筆記すること

 今と昔を識り 天と地を知る

 四季は春夏秋冬 天地は東西南北

 どんな出来事にも 心を留めよ

 目上の人を敬うぺし

 礼儀正しく 暖かい心を忘れず

 

      〔竹の花文芸会報第四号〕

       旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

       2003 年8月21日発行

  十九 その後の私(三)

                             

          橋ロ成幸 (福岡・須恵町)

 

 いよいよ私に「職場のピアニスト」を観る機会がやってきた。といってもビデオでの話である。映画作成の経緯については、すでにビデオで学習ずみである。手元にそろった映画のストーリーを解説した資料を読んだ後のビデオ鑑賞は私にとって納得ゆくものだった。しかし、ユダヤ人へのあまりにもひどい残虐行為の描写は、映画そのものが本来与えてくれる筈の感動の小さなかけらさえも私の心の中に生まれてこなかった。

 確かにシュピルマンのピアノ演奏は、クラシックに縁のない私を引き付けるものだつたが、もともとこの種の映画は、歴史の事実をより多くの人々に知らせるカが発揮されていれば、目的を達したと言えるのかもしれない。話に聞いていたトレブリンカでは、アウシュビッツと同じ事が行われていたことに改めて驚かされた。

 白分からすすんで映画館ヘ出かけた記憶は殆どない。会社のレクレーションで準備されたメニューの中には、野球観戦・相撲観戦・日帰り旅行、海水浴、魚釣り等に混じって映画鑑賞もあった。魚釣りにも何度か参加したが、映画好きの先輩について「ウエストサイド物語」や 「キャメロット」や「ベンハー」を観た記憶は今も結構

鮮明に残っている。昨年の秋、わが町へやって来た巡回映画で「シカゴ」を観た。若いころからジャズが好きだった私には、それなりに楽しめた。普段はテレビで数年遅れの映画を観ている。だいたい四~五年毎にテレビで放映される映画が新しくなるようだ。この間にテレビ局がかわると同じ映画を二回か三回くらいは観ることができる。今年の四月から新しい作品が出て来たように思える。 つい最近エスペラント語の創始者の孫ザレスキー氏の対談集『ザメンホフ通り』が、エスペラント語から日本語へ訳された。インターネットを利用して、六~七名が分担翻訳し纏めたものである。「戦場のピアニスト」のストーリー通りの体験談は一読する価値がある。大手の新聞社へ紹介したところ朝日新聞が取り上げニュースとなった。現在インターネット上に公開されているが、やが

がて出版される予定だ。二十五カ国に腫れ上がったEUでは共通語の採用を検討中である。勿論、百年以上も実際に使用されてきたエスペラント語もその対象となる。

 

     〔竹の花文芸会報 第五号〕    

      旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

      2004 年9月20日発行

 エスペラント奮戦記(六)

  二十 エスペラントは生きている

       

            橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 1906年に世界共通語エスペラントが日本に上陸して2006年で日本エスペラント運動は百周年を迎えることになる。更に第九十二回世界エスペラント大会が横浜で2007年に開催されることが、今年北京で開催された世界エスペラント大会で決まった。

 1965年に一度日本で開催されたことがある。  このよい機会にエスペラント語をもっと普及させようと2004年春に各地で色々な講座が始まった。

 一日数時間だけの短い無料講座から数ヵ月に及ぶ長期の有料講座も開催された。勿論「総合的な学習の時間」を捉えて学校へも積極的に働きかけることとなった。こんな時期に思いも掛けないエスペラント語宣伝の機会が生まれた。それは英語教師が中心となって四十年も前から開催されている「新英語教育研究会」の全国大会である。今年は福岡県の有名な温泉地である原鶴を会場にして、7月31日から8月3日まで第四十一回全国大会が開催された。最終日に計画されたテーマ別分科会で「外国語教育と民際語エスペラント」の表題でエスペラント語について英語教師へ私が紹介した。

 この取り組みはエス語普及活動に熱心な熊本の野村忠綱氏が長年地域で提案されていた活動が形になって実現したといえる。私が福岡県在住者であり、 日頃から学校へ積極的にエスペラント語授業の提

案をしていることもあって発表の機会を与えてくれたというわけである。

 当初はこの大会でエスペラント語講座をやれないかとの提案っだったがこれまでの中学校での国際語授業支援で知った教育現場で「エスペラント」という六文字は知られていても、言葉の意味は勿論概要さえも殆どの教員が知らなかったことを重視し、世界中で使用されている実態についてインターネットのホームページを紹介したり学習用ソフトを紹介する条件で担当することにした。

 さてその準備が大変だった。プロジェクターを使用してパソコン画面を拡大投影し説明をしたいが、大会準備委員会は機器の調達に苦労していた。私は自分の発表練習のために知人からプロジェクターを借用して接続試験を兼ねて練習をした。四つの会場を借用しプロジェクターとの相性も確認するためエスペラント語普及講座を開催しながら分刻みの説明時間を調査した。

 投影したい内容についてはエスペラント語学習を学校へ提案説明するために以前から検討していたので割合簡単に決まったのだが、私の受持ちは全部で45分間である。投影したい画面は幾らでもある。分科会の参加者の多くはエスペラント語について何も理解していないはずだが、世界中の国々で使用され色々な分野のホームページがあることを知らせるためには、やはり投影する方法が最も良いと考えた。

 そこで次のような項目に分類して簡単な説明をしながら どんどん画面を映した。パソコンに不憤れな参加者はきっと困っただろうが、こんなに多くの情報が共通語エスペラントだけで作成され世界中の人々が読んでいる事実にはもっと驚かされたに違いない。

 

 国内組織のホームページ、国内個人のホームページ、エスペラント語授業と学校、エスペラント語の学習、世界組織のホームページ、その他(雑誌・放送・電子図書館・ゲーム等)。

 私のねらいは次の通りである。

「エスペラント語がインターネット上に溢れている」 「エスペラント語学習の無料ソフトCDもある」

「インターネット上でも学習できる」

 「世界中から文通相手を探すネット掲示板もある」

 「エスペラント語の学習は非常に易しい」

 もうひとつ私が準備したのは「義務教育におけるエスペラント語授業実験結果」の外国における統計だった。エスペラント語で書かれたこの原本を私に贈ってくれたのはオーストラリアの女性ジェニー・ビショツプさんである。今年の九月末まで日本に長期滞在している同国の女性ダイアン・ルークスさんの知人でダイ

アンさんと私はエスペラント語講座について何度もメール交換をしていた。私の分科会発表についてダイアンさんが統計資料入手の仲介をしてくれたというわけである。

 

 すでに1920年代からの記録が残こされているこの資料では「エスペラント語授業が他の外国語授業に先駆けて行われることに、「大きな意義と良い効果が認められ弊害など何処にもない」というのが結論だった。辞書と何度も相談の翻訳作業は私にとってかなりの難作業だったが、それだけに勉強にもなり今後の学校への私の提案にも確固たる根拠ができたことを実のところは非常に喜んでいる。

 この発表に関する情報を全てまとめ私のホームページに「エスペラントは活きている」の見出しで掲載しているのでご一読されたい。

 前述のダイアンさんは日本に三年間も滞在していた。最初の一年間は大阪で英語講師を勤め、その後の二年間は香川県の白鳥町で英語とエスペラント語の塾講師をしていた。今年の七月末で講師としての任務を終わり、残りの二ヵ月間まだ訪ねていない日本の西地域を旅行する計画をした。

 早速九州地方を計画にあげてメールで親しくなった私にも会いにやってきた。「竹の花」に以前にも書いたと記憶しているが、エスペランチストの民宿リスト「パスポルタ・セルボ」を利用して彼女の最後の旅行が始まった。

 

 生憎の台風到来で計画はやや乱れたが、88月2日から8日まで山川町・田主丸町・大木町・春日市・長崎市で宿泊し山口へ向かった。私とは二人で汽車に乗り込んで有田陶磁文化館へ見学に出掛けた。

​ 私たちは今回初めて会うのだか既に写真を交換していたので少しは馴染みがあるし、この二年間にメールで50回以上も話をしているので、まるで昔からの友人のように感じるのは本当に不思議である。他の外国人エスペランチストがやって来ても他人とは思えない出会いである。

 現在68歳で、十八年前にエスペラント語と出会ったという。教育に熱心で日本でも各地方大会や合宿で講師を勤めたようだ。彼女の目標はエスペラント国(ある程度の広い土地を確保してそこに家を建て、 外国人エスペランチストとの交流場所とする構想のようである)をオーストラリアの何処かに造りたいという。日本にエスペラント国を造りたいという私の願いと奇しくも同じである。すっかり意気投合した。数年後には何らかの行動を始める予定だと言うので「その時は手伝いに行くよ」と言えば「ぜひ来てくれ」との返事だった。私にも資金さえあればこの日本でエスペラント国を造りたいのだが低年金暮らしでは簡単に実現しそうもない。山口へ向かった後8月18日から彼女は二度目の九州旅行を計画した。25日まで熊本の鹿島町に暫くいたが、26日から別府市・宮崎市・熊本市・宇土市・春日市(太宰府市)と戻り九月4日に広島へ向かった。

 宮崎ではエスペラチストと交流し、熊本では阿蘇の雄大さに感動し、宇土では小学校の先生と交流し、 太宰府市ではエスペラント初級講座の講師をした。

 私と二人で福岡市内の新聞社(朝日新聞社・西日本新聞社)を訪問しエスペラント語を使用した外国人の旅行宣伝を行ったところ、西日本新聞社は一時間を越えて話を聞いてくれ写真も撮ってくれた。まもなく掲載されるだろう。

 今年の三月頃から前述した「新英語教育研究会の全国大会」発表準備で私個人のエスペラント活動は停滞していた。ところが六月に須恵町役場から発行された地域のサークル一覧表をみて一人の女子中学生が学習希望の電話をかけてきた。この8年間に学生の申し出者はひとりも無かった。最初の学習日に彼女は友達を連れてやって来た。早速学習資料を渡し持って行ったパソコンを使用して、色々なホームページや学習ソフトを動かして見せた。中でもオウムが現れてエスペラント語を話すソフトは好評だった。

 インターネットで公開されている無料ソフトだということにも驚いていた。九月初旬まだ4回しか学習機会がなかったが二人とも英語は好きだというから、 本気でエス語に取り組めば中学卒業時には自分で海外文通できるようになるだろう。

 全く問題が無いわけではない。講座受講料は無料だが会場使用料を生徒たちが分担することにしている。全てを無料で行える程度の金額ではあるが自分のお金をださないと気軽に学習を中断してしまうこともある。学校行事で予定日に学習できない場合は、 納めたお金が無駄になる。こんな場合昨年度は払い戻しをしていたのに今年度からできないという施設の話である。。理由は「予定日を過ぎてから使用しなかったと使用料の返還を申し出た人がいたからだ」という。真面目に事前に使用取消を申し出ている私にとっては全く合点が行かない。数回にわたる私の異論申し出にとうとう返えしてくれることには成ったが三日前までの申し出に限るという。昨年に比べれば改悪としか言いようがない。学校のサークル活動などでは会場を無料で使用出来るのだが、学校側が新しい活動に対して今のところ理解がない。

  8月24日西日本新聞紙上に次の記事が掲載された。 「歓迎中国修学旅行御一同様」「来月一日からビザ免除」「九州の観光業者誘致に熱」「学校の交流検討」 「関係者招きPR」「通訳担当者配置」。  企業:JTB・ハーモニーランド・スペースワールド。

 

 私にとっては何とも嬉しいニュースである。学校や地域行政(自治体など)へ青少年の海外交流には仲介語として国際語エスペラントの採用をと二十年も前から提案してきたからだ。中国側で日本語を学習するか日本側が中国語を学習するか、或いは両国とも第三国語(例えば英語)を使用しないと交流は始まらない。中国での学習は日本語も英語も日本に比べると遙かに進んでいるというのが大方の正しい評価である。過去の日中交流でも日韓交流においても、極くわずかの生徒のみが対話できたという隠しようもない事実もある。やはり使用する言葉

は重要な課題である。

 早速私は新聞記事をたよりにJTB国際旅行九州営業部へ電話することにしたが電話帳には該当部署が載っていない。JTB関係のこれと思う事務所へ電話をしたが要領を得ず三回まわされてやっと番号を教えてくれる部署に辿り着いた。

 今年から始まった部署なので電話番号の周知が行き届いていないのが三度も回された理由だという。サービス業としては少し寂しい。しかしコンタクトは取らねばならない。電話に出た女性はやがて男性に代わった。私はJTBの学校交流計画を詳しく知りたいこと、当方ができる協力や支援も聞いてほしいことを伝え部長にもお会いしたいと申し出た。

 相手の男性は中国人のヤンさんという。次週まで部長も自分も出張で揃わない。その後に再度私からコンタクトすることになった。こうして私の新しい活動が始まった。中国のエスペラント組織へ私の計画をメールで送り協力者を募る考えである。説明資料も早急に準備しなければならない。もう七年ほど前から取り組んできたエスペラント語の三国人用(中国・日本・韓国)小会話帳の完成も急がなくては成らなくなった。北京大学の教授と最近連絡がとれている。七年ほど前に上海の知人から造ってもらった中国人用の部分を原本としその校正をお願いした。今回の私の取り組み理由を添えた原稿をメールで送った ら二週間ほどで返事がきた。これから私はこの小会話帳の再構成をして最後には経費が安い中国で印刷する考えである。相手も日本での企業の計画を知りたいというので中国全土に呼びかけるため急いでホームページ作成を始めた。勿論全文エスペラント語で作成するが、昨年の「視覚障害者世界情報ホームページ」作成経験を生かすことができるのは有り難い。とにかく企業の動きや提案と私の計画のみを世界にも公表しよう。

 9月17日にドイツの女性が福岡にやって来る。彼女は会杜の研修で約40日間日本に滞在し終わりの十日間で各地を旅行するようだ。九月末にはオーストラリア女性が子供と一緒に京都に来て、エスペラント語を使用した授業の様子を英語の会議で発表するらしい。この人はジェニーさんの知人で勿論ダイアンさんとも知人である。彼女も福岡へやって来るかもしれない。

 一般の人達へ無料で配付している小冊子『橋渡しの言葉エスペラント』も内容を充実させて第四版とし今回4000部作成した。これで通算一万部発行となる。全国へ配付中のエスペラント語学習ソフトのCDも 130枚を超えた。11月27日には福岡県NPO ボランティア支援センター主催のイベントヘ参加して 展示と小講座をすることが決定している。

 

    〔九州近畿合同文芸誌『竹の花』 第6号〕

     旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

          2004 年日発行

 エスペラント奮戦記(七)

 二十一 中国(桂林・武漢)旅行断念

 

          橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 昨年紹介していた福岡県NPOボランティア支援センター主催の「あすばるフェスタ2004」は昨年十一月末に開催され、私は海外から受領した絵はがきや切手付き封筒の他にエスペラント図書を展示した。勿論来場者への国際語説明も怠らなかった。パソコンで独習できるCD 87枚を入場者へ贈呈し希望者 へ簡単なエスペラント語紹介講座を実施したが、残念ながらエスペラント語学習を始める人は現れなかった。

 水墨画でお馴染みの中国桂林市へ2005年春に出掛けようと前年十二月に入った頃インターネットで受入者を探すとともに、世界エスペラント連盟に私と同じように登録している桂林市の代表者ヘメールで受入れを打診した。旅行目的は現地の水墨画愛好者との交流と中学校か高等学校を訪問して国際語を使用した日本の学校との交流提案をすることだった。

 私の意向を受け入れてくれた桂林市代衣者ルウ氏から歓迎の返事が戻ってきた。折角来るのだから 近くの町のエスペラント会も訪問しないかとの提案もあった。大都市から離れた町では外国人エスペランチストが訪問してくれることを心から待っている。日本でも同じことで、東京・人阪・横浜などには外国人

訪問者が多いが九州の福岡まで足をのばす人は少ない。桂林市からその町まで汽車でニ時間程かかるが目帰り可能だという。桂林でのホテル宿泊も良いが自宅に逗留しても結構だと書いてきた。

 

 インターネットで呼びかけた反応も入ってきた。武漢市の代表者ペン氏からである。彼も桂林へ4月下旬に旅行する計画なので、その時期に来れば一緒に武漢の自宅まで案内するとの提案である。驚いたことには一昨年の八月に北京で開催された世界エスペラント大会に参加していたオーストリア人が現在も長期滞在中だという。

 五月始めの大型連休に中国南部三省(湖北省・湖南省・江酉省)合同のエスペラント大会を南昌市で開催するのでぜひ参加しないかという提案もある。参加するとなれば私が日本国内でCD作成原価で配

付しているエスペラント語学習ソフトを参加者全員に配付してはどうかと提案した。このソフトはインターネット上でフリーソフトとして公開されている。URLを教えて検討して貰うことにした。このエス語学習フリーソフトはブラジルで開発され既に日本語を含め23ヵ国語に翻訳され世界中で使用されている。日本語版と英語版が中国人にとって利用出来るだろうと伝えた。残念ながら中国語版の登録はまだなかったのだ。

 

 以前中国の文通相手に中国語版作成を提案したことがある。既に誰か作成を手掛けている筈だと考え完成しているかも知れないから中国内で調査することも助言した。やがて武漢から私のCD贈呈提案について返事が戻ってきた。中国語版は二人のエスペランチストが別々に翻訳し一人は完成し他の一人もやがて完成するということが判明した。CD配付について少しばかり資金援助を申し出た。福岡では50枚セットのCDを特別セール時に千円以下で購入でき一枚僅か20円以下である。中国での価格を想像出来ないが一枚5円以下に間違いないだろうと決め込み大会参加が約百名程度だと聞いたので三千円を贈れば十分だろうと考えた。見本として私が郵送したCDからコピーする作業は大変だが武漢のエスペランチストが作成作業することになった。

 学習用ソフトは中国語版を採用し、日本で開発されたフリーソフトのエスペラント文読み上げソフト(ESPTAPI)と辞書ソフト(ESDEN)は私からの提供が採用された。後目の報告ではDVDで150枚、CDで150枚を準備し大会に参加した地域代表に、会員へ配付するよう郵送料を添えて渡したとのことだった。

 中国南部三省の大会では分科会で私が無料ソフトの紹介をする段取りもしてくれた。私は中国語を全く理

解しないのでエス語のみでの説明となる。武漢市でも

解しないのでエス語のみでの説明となる。武漢市でも水墨画教室の見学と地域エスペランチストとの懇親会も計画してくれた。地図で南昌市の位置を確認して気付いたのだが磁器で有名な景徳鎮がすぐ近くにある。陶磁器について興味を持っている私は 武漢の代表者ペン氏に景徳鎮へも出来れば一泊旅行したいと申し出た。美術館や窯元を見学したいと伝えたところ彼が同行できない場合は誰か他の案内者を付ける旨返事がきた。

 5月2日から4日まで大会に参加し 5日と6日は景徳鎮訪問となる。桂林市のルウ氏の受人れ準備も進んでいた。水墨画愛好者との交流や水墨画教室見学、できれば会場を借りて個展を開いてもよいとの報告だったが、一趣味人の私にとって個展などとんでもないと丁重に断った。愛好者との交流はとて

も楽しみにしていて出来れば水墨画交流を続けて将来日本で合同絵画展をできないか、その下見をしたいと考えていたからである。

 

 桂林で忘れてはならない「川下り」も、できれば折り返し場所で一泊する計画も立ててくれた。もう一人私の旅行を待っている若者がいた。荊州市科学アカデミー職員のシェ氏である。「竹の花」の前号でも述べた「中国からの修学旅行ビザ解禁」に伴い日本のエスペランチストたちへ知人の紹介を呼びかけていた折、彼のメールアドレスを手に入れていた。

 エス語学習は一応終えた段階だが実際の文通は殆ど経験なく、私との間で始まったメール交換で、私は彼のエス語学習支援を現在もしている。荊州市は武漢市に近く彼も南昌市の三省大会に参加するというのでメール交換は途切れずに続いていた。 飛行機の手配をする期限が近づき困ったことが起こった。ご存じの「反日行動」である。中国では参加呼びかけ情報がネットで流れ 特に都市部の若者層に広まったこの行動は私の想像以上のものだった。計画した旅行日程の途中で、ひとりで桂林

から武漢まで夜汽車を利用する工程がある。何らかの混乱が少しでも起きた場合は中国語を全く理解しない私には対処策がない。また中国を離れる当日も一人行動をしなければならない。

 一旦下火になった反日行動を機に飛行機切符購入を済ませ更に状況が好転するのを期待していた。しかし規模は小さくなったが再発した行動のために 残念ながら旅行を断念せざるを得なくなった。いざという場合を考えて旅行期間延長の許可証も取得していたので七月中旬迄に状況が好転すれば旅行をしようと考えていた。ところが今度は台風による中国南部の被害が大きくとうとう今年は諦めることになってしまった。

 2006年はエスペラント語が日本に上陸して百周年にあたることは前号でも書いた。来年五月には九州エスペラント大会が福岡で開催されることもあり、 九州におけるエスペラント活動記録資料をCDに収録する計画を発表し、既に昨年四月からその準備に掛かっている。私のエス語歴は僅か30年足らず、 来年九州大会は80年目を迎える。九州エスペラント運動の歴史を書く能力など全く持合わせていない。九州各地の幾つかのエスペラント会は自分の会の活動記録をそれぞれ纏めていたが、九州全体として纏めた資料は1927年に発行された後今日までどこにも見当たらない。

 百周年という又とない機会に、ひとりのエスペランチストとして私は自分自身に作業を命じた。本当を言えば命ぜずにはいられなかったということである。  九州エスペラント連盟で現在保管中の紙べースの資料をスキャナーで読み込み、ホームページ形式で読み易い形にしてCDに収録し希望者に贈呈しようという計画である。資料の中にはその儘では読みづらい手書きのものがあり、、パソコンで利用できるように再入力が必要である。近年の活動については各地のエスペラント会へ資料作成を依頼しているが 作成義務があるのではなくその進捗は捗々しくない。

 私も以前住んでいた唐津と佐賀の記録も作成した。勿論「エスペラント伝習所須恵」の活動も収録する。この作業は日本エスペラント百周年記念事業に登録することにしている。すでに数人から完成時に有償で配付してほしいとの希望も届いている。

 昨年から始まった百周年記念事業への私の登録は 『橋渡しの言葉エスペラント』(累計1万部発行)、

『中学校国語2』使用校へのエス語学習支援提、初級者向けエス本の読上げCD原価提供と視覚障害者への無料贈呈、そして九州エス活動記録資料のCD収録である。

 

 今年6月に「エスペラント講演会」を実施した。通常の講座では集まりがなく「講演会」を名のってみた。ひとりの中年男性が現れた。その人は2年前からエス語の独習を始め辞書も市販学習書も持っていて もう少し詳しいことを知りたいと参加していた。私の勧めでその後彼は通信講座中級を受講中である。

 百周年をめざして日本各地でエスペラント講座が開催され来年の十月頃まで続く。最近の国内情報には埼玉大学で約300名の学生が学習した。しかしある科目の中の一部授業で年間通しの学習ではないようだ。

 韓国では公立大学で選択科目に設定され約350名が一年間を通して学習している。中国でも大学の正規科目に選定された。残念ながらこの分野でも日本は遅れている。ヨーロッパEUで同時通訳をしていたスペイン人カマチョ氏が福岡へやって来た。台湾人女性と結婚し新婚旅行で日本へ立も寄ったのである。皆で歓迎会を開き彼のEUでの働きとエス語が共通語として採用される可能性について話を聞いた。EU会議では提案文書や議題など資料を事前に入手するので、内容を把握することができ殆ど間題は無いが、討論では発言と同時に訳さなければならないので実に不十分な訳とらざるを得ない。彼は主にスペイン語・フランス語・イタリア語などを担当したという。若干24歳で世界エスペラント協会役員となった 稀に見る天才肌の彼の経験と意見には耳を傾ける価値があった。参加国数が25に膨れ上がったEUでは全体会議でも通訳に

間題を残しているがEUでは全体会議でも通訳に間題を残しているが 分科会になると出席者がそれぞれ自国語で発言する。とてもではないが同時通訳者の出る場は無いにひとしい。各国が自国内でエス語使用を積極的に進めることが先決だろうと彼は言った。この様に聞くと 日本でのエス語普及活動は喜ばしいと言える状態には程遠いと私は感じた。

 

 今年七月にブラジルから一通のメールが届いた。初級者用のエス本を読み上げたCDを日本で販売しないかという提案だった。紹介されたホームページで内容を確認すると数人が会話形式で読み上げている。なかなか良さそうだ。提案者有名人のエミリーオ氏の話では販売利益は全て私が使用してよいという。私は早速次の提案をした。視覚障害者エスペランチストの支援をしているので無料提供したいと申

し出た。彼の了解を得て取組むことにしたが晴眼者へのCD販売価格について彼との間でひともめした。

 日本人は金持ちだから送料以外に最低10ユーロで売ってほしいという彼の希望である。私は送料含めて1700円止まりだと報告した。仲間数人に意見を聞いたが国内での反応はよくない。最終価格として送料込みでCD2枚組ケース付き千円とした。しぶしぶ私の結論に彼は同意した。1ケースあたり数百円の益金全てを視覚障害者へのCD無料贈呈に充てることにし、呼びかけをしたところ幸いにも一ヵ月で20名の購入者が現れた。視覚障害者の支援者が2名(朗読・点訳等のボランテア)に見本品として贈呈し視覚障害者2名へ贈呈した。

 「エスペラントをひろめる会」(会長温泉川美喜雄氏・福津市在住)の月刊誌を介して11月末頃には視覚障害者からの希望数も把握できる。

 アフガンでもエスペラント活動が始まった。手品をしながら友好活動をしている日本人エスペランチストが積極的に支援し将来の支援をイラクの仲間が組織として行うこととなった。前に紹介したブラジルのエス語学習ソフトCDを作成費相当額で5枚提

供したがアフガンの地のエスペラント組織に贈呈されたと聞いている。

 

 教科書『中学校国語2』に掲載されたエスペラント語紹介をきっかけに、福岡県内3校と佐賀県内2校の中学校ヘエス語授業の支援提案を行い関係資料を贈呈した。福岡泰西中学校から生徒34名の資料請求があり教師分を含めて40部贈呈した。他の学校へ十月初めに再度提案文書をおくったが反応はなかった。全国の百校余りへメール提案や資料郵送で提案したが反応はない。

 私とエス語指導について協力し合い日本に3年間淋在し2度に渡って九州へ旅行に来たオーストラリア人女性ダイアンは昨年十月に帰国し数年前に亡くなったご主人の母国チェコヘ渡り、現在南部にある高校でエスペラント語専任教師となって今年9月から2年間働き始めた。すでにインターネットで情報交換をしている。近々彼女へ読み上げCDを贈足しなければならない。

 ベトナムのハノイ市に建設された「点字図書館」は熊木秀夫氏の献身的な働きで東京JICAの資金支援を受け今年九月に実現した。ベトナム戦争時の枯れ葉剤のため多くの視覚障害者がいる。特に子供たちにその被害者が多いという。ベトナムに盲学校はない。昔エス語は盛んだった国のようだが、大人はフランス語を理解し若者は英語が主流だという。ここでもエス語学習ソフトが熊木氏の力で配布され、子供たちが学習に取り組んでいる。残念ながらパソコンが買えないので会祉や団体の機器を使わせて貰うのだという。

 

 

     〔九州近畿合同文芸誌『竹の花』 第7号〕

      旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

            2005 年日発行

  二十二 その後の私(四)

                            

          橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 国際語エスペラントの世界でも外国人の「俳句」への関心は高い。ひょんなことから、私も知ることとなつたエスペラント語(以後エス語)の掲示板がインターネット上に存在していた。と言ってもまだ会員十名ほどの団体で、日本の文学を広くエス語で紹介しようというのが意図らしい。その中に、「俳句」や「短歌」が多く現れる。掲示板の管理者は日本語を理解するアメリカ人である。自作の俳句や短歌を発表するほかに、芭蕉や蕪村や子規の俳句を自らエス訳したり、これまでにエス訳された作品を次々に発表する。

 毎月俳句の課題を出して皆の投稿を待ち、月毎に区切って皆に投票を呼びかける。

残念ながら過去のエス訳俳句は、NHK番組と同様で三行書きである。日本のエスペランチスト(エス語を使用する人)たちが外国人に理解し易いだろうと三行書きの脚韻付きを採用した。従って外国人の作品はすべて三行書きである。

 

 俳人清水杏芽氏の提唱に賛同した私が以前から 述べているように、「切レ」 のない作品(「切レ」を表現できない作品)が多い。伝統日本俳句は「切レ」のある一行書きだと説明するのに大変だ。俳句が本場の日本に於いてさえ「切レ」のない作品が幾つも新聞の月間入選作として紹介されるのだから、外国人に「切レ」の意味と意義を説明するのは大変である。

 そこで私は『新撰子規俳句集』(千葉鬼村編)の中から季語が外国人にも分り易くて、情景描写も想像し易い作品を選んで、少しずつエス訳し掲示板に投稿することにした。単にエス訳だけでは理解出来ないので、元句をエスペラント文字のローマ字書きで紹介し、一つ一つの言葉の意味をエス単語で紹介する。そして私のエス訳を紹介し、最後に季節と季語を付記する。この方法だと日本語を少しでも理解する外国人はきっとエス訳の出来具合を自分なりに鑑賞するだろう。

 現在三十句ほどエス訳しているが、四六八頁のこの句集には約八百五十句が紹介されている。この中の百五十句ほどエス訳できれば、おおいに日本文学の宣伝になるだろう。ついでに伝統日本俳句のエス語版ホームページを作成することにした。俳句の規則説明や書籍紹介と念願の清水杏芽著『俳句は「切レ」がいのち』(平成五年発行・沖積社)のエス訳も始めることとなつた。

 

 四月未に計画した中国南部地方への旅行は、反日運動のため中止したが、桂林と武漢のエスペラント仲間が受け入れを約束し、水墨画愛好家との交流やエス語交流による学校訪問も既に計画していただけに残念だった。

 

    〔竹の花文芸会報 第六号〕

   旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

   2005 年7月1日発行 

 エスペラント奮戦記(九)

 

  二十三 世界大会がやってきた

 

          橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 第九十二回世界エスペラント大会がパシフイコ横浜で2007年八」月四日から十一日までの一週間開催された。1965年にアジアで初めて日本で開催された後四十二年振り二度目の開催である。中国も韓国も最近の二十年間に世界大会を弐回ずつ開催しているので、日本での二度目開催は寧ろ遅かった。勿論私は一週間参加してエスペラント語の世界を堪能した。

 世界大会参加者約二千名、その半分は外国からやって来た。八ケ岳エスペラント館では、子ども対象の大会も一週間同時に開催された。横浜のザイムでは一般人も対象とした講演会・エスペラント展示・エス語講習会などが開催された。参加国数は日本を含めて五十七という多さなのに、全てエス語使用者の間では通訳はいらない。勿論配布資料の殆どはエス語のみで記述されている。大会前後に実施された数日間の観光旅行は、夫々の観光地のエスペランチスト(エス語使用者)が案内を担当した。

 

 今回の世界大会開催に際してアジア地域のエスペラント活動を活発にしようと全部で二十名が全期間招待された。中国からは五名が招待され、そのうちの一人ション・リンピン氏(熊利平氏四十歳半ばで新余市の大学教授)が、七月二十八日福岡国際空港に着いた。諸般の事情から二日間彼を私の家に泊めることになった。熊氏の世界エスペラント大会参加

の旅は、二十七日に居住地新余市を特急列車で発ち上海へ夜到着、駅で一晩過ごした後上海空港から福岡へ飛んで来た。お互いインターネットで十回程メールを交わしていたからもう友人と云えるほど親しくなっていた。

 福岡滞在中の観光案内情報も事前に知らせ、私の趣味やエス活動についても彼はすでに承知していた。なかでも私がエス語で作成した須恵町のホームページを自宅で見てくれたので、私の町にもきっと違和感など無かったはずだ。

 福岡国際空港到着後ロビーに現れるまで時間が掛かったのは何故だと訊ねたら、鞄の中を念入りに調べられていたと言う。一人旅の働き盛りの中国人の男がすんなり通過できるわけなどないのが最近の状況だ。私が今年四月に桂林へ水墨画の旅をしたが、団体旅行の私達は直ぐに通過出来ても一人旅の男性は三十分程時間を掛けて旅行鞄の中を検査されていた。私の家に荷物を置いて、途中でエス語仲間の武藤たつこ氏を誘い大宰府へ向かった。外国人相手の観光案内お決まりのコースで最初は光明善寺だ。一番の魅力は春の新緑と秋の紅葉の時期である。残念ながら夏期はいまひとつである。それでも箒跡の残った砂地と配置された数個の岩を観て彼は満足そうだった。

 

 過去・現在・未来を表わすた三つの橋を渡り、樹齢数百年の大きな楠の幹に驚き、一昨年綺麗に塗り替えられた太宰府天満宮社殿へ向かった。回廊に展示された小学生の習字を眺めて文字の意味についても談話した。夕方仲間が二人加わり五人で歓迎食事会を開いた。熊氏は日本語がわからないし私達は中国語がわからない。初めて会う私達と彼とのエス会話は実に滑らかで、私以外の三人もすぐに彼と近しい友人となった。歓迎会を終えてジス・レビード(さようなら)、ジス・ラ・ウーコー(じやあ世界大会で又会おう)と別れを告げて帰宅した。彼は早速シャワーを浴びて一時間ほど私と雑談し自分の部屋へ戻った。後に彼から聞いたのだが今日の出来事を細々ノートに記録していたため、眠りについたのは夜中の一時半を過ぎていたという。

 日本での二日目(二十九日)は朝の散歩で始まった。今日は参議院選挙の日である。入口から中を伺う程度だが日本の投票会場を一寸覗いて貰った。彼は私の投票案内用紙も記念に写真に収めた。

 

 私の自家用車で福岡市博物館へ出かけた。韓国や中国と繋がりのある日本文化であり農機具や陶器など沢山展示されている。館内レストランで日本料理のミニ版松花堂弁当を食べたら千五百円という価格に彼は驚いていた。中国の約百元に相当する。ゆっくりと食事を済ませ福岡市の中心街天神にあるイムズビルヘ向かった。このビルの八階には福岡市国際交流センター「レインボー・プラザ」がある。大理石造りの天神地下街を散歩し、大型書店を覗き、喫茶店で小休止し四時過ぎに帰宅した。

 今夜は温泉大浴場へ出かける約束だ。夕食は浴場へ行く途中のうどん専門食堂で「冷やしうどん」と「おにぎり」を食べた。麺のみ一人前追加して二人で分けたが、麺つゆの味にも彼は美味いと云ってくれた。さて共同風呂を利用するなんて彼の旅行計画には無かった筈だ。身体をざっと流して浴槽に入る。片足を入れるなり彼は熱いと足を引っ込めた。中国での生活では浴槽に肩まで浸かる習慣はないのだろう。熱さを我慢して首まで浸かり身体を浮かせてゆったりすると、流石に気分がよいと上機嫌だった。

 帰宅して彼からお土産に貰った掛け軸を壁に掛けてみた。私の好きな山水の水墨画である。彩色もあり丁寧に描き込んであるが、日本の水墨画のような遠近感が少々足りないのは中国画の特徴である。彼の大学で美術担当の友人教授が描いてくれたという。中国製品にしては、立派な紙表装でなんと二百元かかったという。私も二年間ほど一級表具士から習った経験があり、自分が描いた水墨画を布表装している。全紙(縦136糎・横68糎)の水墨画を、古い着物地を解いて裏打ちし仕上げるのが私の方法で

 私が趣味で描いた水墨画を彼に見てもらうと、絵にも表装にも感心していた。パソコンを操作して、彼が日本に来る前に知らせておいたエスペラント文を自動読み上げするプログラムや電子辞書のフリーソフトを実演してみせた。特に読み上げソフトには驚いていた。彼の大学にはまだエス語学習のクラブは無い。世界大会参加と日本での交流を体験し、帰国後学習グループを立ち上げる計画だという。世界大会直後成田空港から上海へ戻り、直ぐに数箇所の都市で体験報告講演をする手はずとなっていて、自宅に戻るのは一週間ほど後になるという。明日の荷造り準備もあり、十一時少し前に彼は寝室へ戻った。

 

 三日日(三十日)今日の午後三時には彼とお別れである。須恵町でのエス語普及活動の手助けをして貰おうと町役場へ町長を直撃訪問した。ほんの十分で良いから面会したいと告げ、日本で開催される世界大会参加のため中国の友人が須恵町を訪問し、私の家に宿泊している、とねじ込んで時間を貰った。それならということになり町長室へ招かれ、熊氏は町長と名刺交換をし、二人の会話を私が通訳した。

記念に二人を彼のデジカメに収めた。須恵町公認のエス語講座開催について話を持ち出し、以前私が提案したが受講応募数が見込めないと却下されたことを話した。新しい取り組みに対しては、どんな講座でも有意義であると判断されれば、一年間は町の講座として公認して欲しいと要望した。町長はこの私の意見に賛同し、社会教育担当課に伝えておくと約束した。果たしてうまく機能するか疑問だが、新しい機会が生まれたことも事実だ。翌年早速提案してみることに決めた。

 バスと地下鉄を利用して博多駅へ行き、隣のバスセンタービル四階にある百円ショップを見学した。商品の多さに驚き、またその多くが中国を初めとするアジアの国々の製品であることにも驚いていた。記念にと日本全図(百円)を彼にプレゼントした。

昼食は福岡市役所十二階の社員食堂へ出かけて冷麺(四百八十円)を食べてみた。味は今ひとつだったが、ボリュームたっぷりだった。午後三時には博多駅の情報案内前で、熊本県宇土市在住の野村忠綱氏とインドネシアからやってきたジュネップ氏と待ち合わせていたら三時前に二人は現れた。ここでも初対面ながらお互いにサルートン(やあ、こんにちは)とお決まりのそれでいて親しみを込めた挨拶を交わし握手した。ジス・ラ・ウーコー(では、世界大会で)と私は熊氏に別れを告げた。彼から貰った水墨画掛け軸と磁器の小物入れのお礼にエス語本数冊とカセットテープ弐二本を贈呈した。そのほかに米を使った日本料理のレシピ約三十枚を納めた冊子を奥さんと娘さんへ贈呈した。娘さんが、いつか日本にやって来るかも知れないと思い新聞綴じ込みの食料品チラシも物価高資料として渡した。

 今度はハザイリン・ジュネップ氏のサポートが始まった。数年前大地震と津波の被害を受けたインドネシアの旧首都ジョ・ジャカルタに住んでいる。やはり世界エスペラント大会に招待されたアジアの活動者のひとりである。四十歳半ばで中国の熊利平氏と同世代である。三年ほど前にエス語と初めて出会い学習を始めたという。その後エス組織を作るため、以前私も会ってよく知っているオーストラリアのダイアン・ルークス女史を迎えて、普及講習会を開いたが、残念ながら人は集まらなかったという。彼の話では、数年前の被害のため住む家をはじめ財産の全てを無くし、働く職場も失って日々の生活に困窮している人々には、エス語学習など眼に入らない、というのが実状のようだ。

 そんな中で借金をして、学習書とエス語辞書を、ひとりで出版した彼のエネルギーには驚嘆と尊敬の念を抱かざるを得ない。もともと観光

ガイドを仕事とし情報収集をしていたという。しかしエス語に出合ってからはエス語で直ぐに情報が手に入るようになり、殆ど他の言語を現在は使用していないという。

 

 午後七時半から宿泊ホテルに十名程集まり歓迎晩餐会が始まった。その食事会に毎日新聞社の記者が取材に来てくれた。福岡エス会の秋吉任子氏の熱心な働きかけが実り、昨年大宰府で開催した第八十回九州エスペラント大会にも、今年長崎市での第八十一回九州大会にも取材に来てくれた。しかし彼女の記事はまだ紙上に出ていなかった。今回の世界大会に際してアジアから招待されたジュネップ氏歓迎晩餐会の取材を是非にとお願いしていたのである。簡単な挨拶を交わし食事が始まったが、ジュネップ氏に対する記者の質問は、エス語学習開始の時期や彼の街の仲間の数や現在のエス活動状況などだった。個この取材は数日後の新聞で大きく報じられた。彼はパソコンを持参していて、両面にインドネシアの観光地を映し出し集まったq皆に観光案内をしてくれた。紹介された幾つかの建物は津波のため破壊されてしまったという。生活が不安定な現状ではエス語普及活動は非常に難しく、当分の間はエス語を使用してネット上に母国の情報を提供したり、新聞や雑誌などのマメディアにエス語で得た情報を提供することに積極的に努めたいと彼は話した。

 彼は現在彼の街の観光事業の指導者としてただひとり任命されているという。九時半を過ぎ散会することにした。集まった皆は初めて会って、またいつ会えるか知れないけれど、お決まりのエス語訳歌ジス・レヴィード(また会う日まで)と挨拶を交わした。私は明日も半日案内するので、ジス・モルガウ(明日、またね)といってわかれ、彼は福岡エス会会長の西田光徳が提供してくれた日本航空テルへ戻っていった。

 二日目(三十一日)午前八時半にホテルヘ出向き、私は自家用車で彼を大濠公園の日本庭園へ案内した。敷地は広くないが、池、小瀧、水車、あずま屋などあり庭木も丁寧に剪定されていて、まさに日本小庭園の見本である。彼のビデオ撮りもスムーズだった。大濠公園を眺め、近くの福岡市美術館も少しばかり見学してホテルヘ戻った。彼の宿泊ホテルのレストランでパスタを食べながら、世界大会会場での再会を約束し別れを惜しんだ。長崎行きの新幹縁ホームまで見送り、ジス・レヴィード(じやあ、また)と手

を振った。彼のお土産は洒落たネクタイピンだった。私はエス語の本数冊とエス語のカセットテープ二本を贈呈した。勿論これからお互いにネットで情報を交換し、エス語普及に協力しようと約束した。

 

 二人の外国人の世話で三日間あわただしく過ぎ八月四日から横浜へ出かけるための準備を急いだ。福岡空港発の飛行機には福岡エス会の二人の仲間と乗り込んだ。正午近く羽田空港に到着し空港内のレストランで食事を済ませ、受付会場のパシフィコ横浜へ向かう高速バスを利用した。到着してビル街の広さに驚きながら会場に入り、参加登録証を示し大会資料と名札を受け取った。数人の現地実行委員が忙しく準備に追われていた。

 みなとみらい線を利用して、三人とも一旦ホテルヘ荷物を置きに戻った。二人と別れて私は「東横イン日本大通り駅日銀前」という長い名前のホテルを利用した。このホテルから最寄の駅まで僅か数分で行けるし、みなとみらい駅まで三分乗車すれば下車して徒歩五分程で会場へ行ける。軽朝食(おにぎりと味噌汁)付で一泊六千四百円だった。ミネラルウォーターは無料でいくらでも飲める。私もそうだったが、外国人エスペランチストたちは二リットル入るペットボトルを何本も持ってきて利用していた。一本二百円程する飲料水は、特にアジアの国からやって来た外国人には余りにも高すぎる。今年の猛暑

を乗り切るには水を飲む以外無いとさえ思えた。

 この大会で私は沢山の写真を撮ることに決めていた。幸いデジカメの操作にも慣れてきたし、二GBのメモリーカードを二千九百八十円で買い込み、記録密度を八百KB程度にし、良い機会を見つけてはどんどん撮影したところ、最終カウントは約千枚になっていた。その中から不要なもの約百五十枚削除し七百五十枚を採用した。

 

 参加したのは開会式・閉会式は勿論のこと、大会テーマ討論「東洋における西洋/受容と反発」、コーラス指導、日本の夕べ、アジアにおけるエス運動の経緯、アジアでの活動報告、大会大学講演「俳句」、一日遠足「東京・江戸・上野・アメ横」、日本のアニメ解説、弁論大会、囲碁解説と指導、視覚障害者会議、来年の世界大会案内、国際芸術の夕べなどである。

 何度も時間を掛け覗いたのは図書販売の部屋だった。三十個ほども並んだ鉄製五段ラックにギッシリ並べられた図書やCDやカセットテープの多さに驚いた。どんな内容か出来るだけ時間を掛けて何度も覗いた。最終日迄に展示品の約八割が購入され世界へ旅立ったようだ。私が生まれた1941年以前に出版された三冊の古書を記念に購入した。

 いつものことだが世界大会へ参加した場合、毎日発行されるニュースを、大会に参加できなかった世界の友人のために集めて、最終日に封筒に入れ船便で大会会場から発送した。その宛先数は十六ヵ所となった。

 初対面の日本人や外国人にも挨拶を交わし雑談した。プラハの世界大会で会い日本大会参加のついでに佐賀県有田町へ磁器鑑賞のため私を訪ねてやって来たドイツのハインツ・シンドラー氏、私が作成した小冊子『橋渡しの言葉エスペラント』を使用して、香川県白鳥町でエス語講習会を開き、福岡をかわきりに九州(長崎、熊本、別府、宮崎)のエスペラント仲間を訪ねて独りで旅行したオーストラリア

のダイアン女史、エス語会話のCDを交換した韓国のイ・ジュンギ氏、ソウルの世界大会で会いプラハの世界大会で会い、古くからの文通相手リトアニアのアルーナス・カズラフスカス氏とその夫人、熊本県人吉市の視覚障害者碓井亮夫妻が今年五月ポーランド旅行を計画した際に、その仲介をインターネットでした相手のポーランドのエス語放送局長バルバラ女史、福岡市在住の大先輩森真吾氏の文通相手であり、お二人が相手の国を訪問して親しい仲のボスニアのスポメンカ・シュティメッツ女史など。撮影した写真はCDに焼き付けて、中国・エストニア・オーストラリア・トルコ・ブルガリア・ドイツ・イ タリア・ベトナム・インドネシアなどの友人に贈呈した。

 

 きっと世界大会を広く知らせる手助けになったと思う。二年後はエス語の創始者ザメンホフの生誕百周年で、ポーランドのビヤリストックで大会が開催される。私も是非参加したいと資金づくりをいまから考えている。預金利子など殆どつかないご時世なので僅かぽかり所有している株の値上がりを待つ以外にない。そう云えば今年の三月に株を処分して得た金で、桂林観光旅行ができた。柳の下にドジョウは、そうそう居ない筈だが、まだ二年間余裕がある。持っている自動車も使わないようにすれば十万円程出費は少なくなるだろう。中古車だが万一売れれば五万円は入るかも知れない。世界大会後一週間か二週間ヨーロッパを旅行するとなれば六十万円は必要だろう。まあ目標に向かって地道に節約するのが一番なのかも知れない。

 

 世界大会から戻ったが、横浜で猛暑に見舞われ、自宅で数日間休養する羽目になった。六十五歳となればやはり体力が落ちていた。二年後のポーラント大会までに鍛えねばならない。どうにか体調も戻った頃、横浜での世界大会参加の外国人が九州まで足を伸ばすという情報が入った。私の家では泊めることが出来なかったがブルガリアのアントワネッタ女史は、福岡エス会会員の秋吉任子氏と交流もあり彼女の家に二泊し、

福岡市内観光では私を入れて三人で櫛田神社を訪問し、次の日は大宰府観光をし、翌日韓国へ旅立った。

 ドイツのイング・シモン女史とユーゲン・バウアー氏夫妻がやってきて、二日間平山晴記宅に泊った。この二人とアントワネッタ女史の三人の歓迎食事会を開催した。エスペラント語が飛び交う賑々かな会合となり、私は会員の子ども達を無料招待し三名の子どもたちが出席して、実際に使用されているエス語を体験してくれた。将来良い影響かおることを願っての私の発案だった。

 六十歳少し前のドイツ入夫妻は海が見たいし船に乗りたいと言う希望だったので、私が案内して志賀島にあるマリーンランドヘ一日がかりで出かけた。

 

 幸い快晴だったので船室に入ることもなくデッキで写真を撮ったり風に吹かれたり、実に楽しそうに子どものようにはしゃいでいた。マリーンランドのことはテレビのニュースなどで何度も知っていたが私も行くのは始めてだ。両壁も天井もガラス張りの通路で大きな鮫やエイなどが近くに追ってくる。水中餌付ありの迫力あるショウに三人とも大満足だった。展示水槽には大きな蟹や蛸が動いている。不思議な姿の魚もいる。イング女史のデジカメはとても性能が良く暗い水槽の中も実に綺麗に撮れていた。

 外ではアザラシとイルカのショウもあり大盛り上がりの会場だった。往きのフェリーとは別の船で博多埠頭ヘ戻ってきた。帰路は海上で大雨に会ったが、到着する頃に雨は止んでいた。日頃の行いが良いからだとお互いに言って大笑いした。二人はとても楽しい忘れられない日本の一日だったと喜んでくれた。是非ヨーロッパに来たらドイツを訪ねてくれと、お決まりの案内もしてくれた。二年後にはポーランド大会に参加するつもりだが、先立つ金が無いからといったら歓迎するとの返事だった。船賃と食事代は夫妻が払ってくれた。通常旅行者が案内を頼んだ場合、その費用は旅行者が払うのだそうである。そういえばドイツのシンドラー氏と有田陶磁器会館を訪問したときに、彼が汽車賃を払ってくれたことを思い出した。

 今年十二月下旬に「九州民放研大分(別府)集会」が開催される。この分科会で二十分間、五年程前に実施した中学校での「エスペラント紹介授業」の報告をすることになった。その資料作成に今追われている。授業に至る経緯と生徒達の感想をベースに、エス語学習による国際語の正しい認識と、二十一世記人としての外国人に対する姿勢について紹介し、学校でのエス語授業導入を提案する予定である。

 英語学習が如何に困難で一般人には習得し難いかを話したクロード・ピロン氏のDVDも提供できることとなった。集会に参加する教師たちはきっと驚くことだろう。現在フランス在住の日本人水野光子さんの助言と協力で、トーゴ国の子ども用のエス語フランス語辞書作成について計画を進めている。

 エスペラント語の使用者たちを、単に言葉が通じる人たちの集まりだと受け止めている人も多いが、皆んなが平等に学ぶ共通の言葉は、対等な人間関係をつくるし、そのことが限りなく友好と平和を意識した人間に育ててくれる。欺瞞に満ち溢れた政治や企業の姿を眼にする度に、相手を信頼することと誠意を尽くすことの大切さを考えさせられる昨今である。

 

 

      〔九州近畿合同文芸誌『竹の花』 第9号〕

    旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

    2007 年日発行

 エスペラント奮戦記(最終回)

  二十四 エスペラント語と英語

 

          橋口成幸 (福岡・須恵町)

 

 九回にわたって国際語エスペラントの体験報告をしましたが今回で終わることとします。まとめとしてインターネットでビデオ公開され、世界中の人々へ呼びかけられている元国連・WHO通訳者でジュネーヴ大学心理学教授クロード・ピロン氏の講話を紹介します。その内容を簡単に言えば、真の国際理解には英語と比較してエスペラント語の方が優れているというものです。この講話の利用は無償で許されていて、各国のエスベランチスト(エスペラント語を使用する人達)が自国語に翻訳したテロップを追加して、知人や友人のほか一般の人々へ紹介したりDVDで配布しています(邦訳・水野光子)。

 英語授業さえ生徒にとって大変なのに誰も知らない別の言葉の学習を始めるなど論外だと考えている教師たちは多く、また一般の人たちも同様だといえます。エスペラント語がどの国の国語よりも容易に理解できる言語だということは明白なのですが、その事実や存在さえ知る機会は殆どありません。数年にわたる本誌掲載記事と地方行政(教育機関)への提案がエスペラント活動コンクールで受賞したことも報告しました。その賞金と自費を加えて配布用のポケット版紹介誌『橋渡しの言葉エスペラント』を四千部発行し、延ペ一万部発行となったことは、我が国のエスペラント運動史の一行となりました。

 労働者の文芸詰「竹の花」で紹介する機会を得られたことは非常に垂要なことで、多大のページを与えられた編集部と忍耐強く読まれたであろう読者に心から感謝します。できれば次世代の人たちへお知らせいただければ幸いです。今回の転載記事も、前述のような私の活動実績に対し、水野光子氏より許可をいただいたものです。

 (クロード・ピロン講話より)

            

  二十五 言語問題に挑む            

 

                水野光子訳

 

 こんにちは。私は、日頃から英語を「外国語」だと感じながら使用している一人ですが、今日敢えてその英語を使って長年にわたり言語と関わってきた私の経験をお話したいと思います。私の英語は決して流暢とは云えませんが、寛大な心で聴いていただけると幸いです。

 私は世界中のいろいろな国際機関で働く中で、大きな総会や専門家の小さな集まり、現地の人々との日々のやりとりなどを通して、意思疎通というものが、いかにしておこなわれるか、インサイダーとして見つめてきました。そんな私の言語問題へのアプローチは、ちょっと変わっているかもしれません。

 私は十代の頃からエスペラント語(以降エス語)をしやべってきました。エス語とは、1887年にポーランドのある青年が考案し、その後世界中に広まった国際語です。今やエス語をしやべる人々は、世界百二十0ヵ国以上に存在していますが、このことは、マスコミや政治家多くの言語学者や一般の人々からも、

完全に見過ごされてしまっています。しかしエス語は実際に生きていて、世界のあちこちで毎日使われているのです。

 多くの人々が言語問題は英語によって克服されたと考えているようですが、それは事実ではありません。英語を母語とする所謂ネイティブの人たちは世界人口の五%にすぎません。ネイティブではないが十分に英語を使いこなせるという人はそれより更に五%多いだけです。

 

 ヨーロッパ大陸の人口の九十%はシンプルな日常英語さえ理解できません。ごく普通のポーランド人やイタリア人、韓国人やポルトガル人も英語でしやべろうとすると、たちまち言葉を失ってしまいます。あたか

も脳卒中で言語中枢をやられ、失語症にかかってしまったかのように、正しい英単語を探して記憶の引出しを開け閉めし発音もおぼつかず、言葉が足りな

い分、身振り手振りで補わなくてばかりません。何度か聞き返さないと理解できないこともよくあります。そうしているうちに多くの人は疲れきって諦めてしまいます。習得していない言語で自己表現をするのは、それ程大変なことなのです。

 

 ご存知の通り、かれらは六年も七年も英語を勉強してきた人たちです。週に四時間も五時間も費やして英語教育はひどく無駄だと云わざるを得ません。教師や教え方に問題かあるのではなく、英語という言語が異文化コミュニケーションのニーズに応え切れていない。私はこれまで数え切れないほど多くの国際会議に参加してきました。英語で行なわれるものもあれば同時通訳を介するもの、エス語を使った会議もありました。その中で参加者全員が対等に発言でき、自然体でいられくつろいだ雰囲気のなか、本当の意味で活発な議論が行なわれたのは、エス語による会議だけでした。

 エスペラント語は非常にうまく創られた言語で、心に浮かんだ言葉がそのまま文となるようにできています。六ヵ月も習えば外国人と会話ができるようになるでしょう。英語など他の言語では六年かかっても、なかなかこの域に達しませんね。つまり、エス語の学習は極めて割がいいのです。費やした時間や労力が無駄になることはありません。

 私は五十を超える国々で現地の人々とエス語を使って話してきました。日本でも、ブラジルでも、オランダやウズベキスタンでも、いつもとても気持ち良く会話することができました。エス語を話すとき、人はありのままの自分でいられるのです。英語の場合、ネイティブでない私たちはネイティブの真似をしなければなりません。決してネイティブには成れないと分かっていながら。エス語の素晴らしいところは、しゃべり方も、文の組み立て方も、普段

のままで良いということです。それでもちゃんと話が通じるのです。誰も下手だとか、奇妙だとか、異質だとか思うことはありません。例えば「私はそれを実に速く習得した」というエスペラント文は、どのように語順を並べ替えても、同じ内容を意味する文として、ちゃんと成立します。

(フランス語風)

   Mi lernis ĝin vere rapide.

(英語風)

   Vere rapide mi lernis ĝin.

(イタリア語風)

   Mi ĝin lernis vere rapide.

(ポーランド語風)

   Ĝin vere rapide mi lernis.

 過去百年にわたりエス語が使われる中で実証されたことは、エス語なら各言語が持つ違いを超えて、互いを完全に理解し合えるということです。

 私は国連で通訳を務めていた者として証言できますが、エス語は他の言語に翻訳する上でも非常に優れた言語です。英語よりも明確なため、法律や科学の文章に適しています。ユーモアや詩にも非常に向いています。何より感覚や感情を表現するのにぴったりです。文法上の例外や複雑さ不規則さに邪魔されることなく、自然に沸き上ってくる言葉を、そのまま文にすることができるのです。エス語では「月」という名詞を知っていれば、「月の」や「月のような」という形容詞を覚える必要はありません。単語の語尾を「a」に変えるだけで形容詞になるのですから。

 luno (月)luna(月の、月のような)

同様に「町」や「年」の形容詞も簡単に作れます。

 urbo (町) urba (町の)

 Jaro (年) jara (年の)

 このように、パーツを組み合わせて自由に造語できるところは、中国語にも似ていますね。

​​ eksterlandano(外国人)

 Ekster (外) land (国) ano (人)

 単語を山のように記憶しなくても、知っている単語を膨らませるだけで、語薙部ひろがり、際かな表現ができるというわけです。

 

 1995年(註)以来、毎日必ず地球のどこかでエス語が使われてきました。国際的な会合で、民間交流で、勿論インターネットで広く使われています。グーグルやヴィキペディアにもエス語版があります。世界の国々が、少しばかりの決意をもってエス語を奨励するだけて外国人の前で失語症に陥ってしまう何十億という人々を救済することができるでしょう。

 そのためには各国政府が協力し合って、すべての学校にエス語の授業を取り入れ、大人には三ヵ月間一日に十分間だけ勉強してもらえるよう働きかければよいのです。十分間なんて、クロスワードパズルを一問解くより短い時間ですよね。

 こうして雪だるま式にエス語が広まれば地球上のコミュニケーションのあり方は、見違えるほど変わるでしょう。誰もが自分の母語を大切に保ちながらどの国の人とも自由に語り合える、実用的なツールを使いこなせるようになるのです。世界中の人々がより対等になり、あらゆる分野において互いをより深く理解し合えるようになるでしょう。税金の使い道としても、ずっと有意義です。経済学者フランソワ・グランの試算によると、ヨーロッパ諸国がエス語を採用するだけで、年間二百五十億ユーロを節約できます。米ドルで三百五十万ドル、日本円にして四兆円もの節約です。そろそろこの現実に本気で向き合い、行動を起してもよいのではないでしょうか。ご清聴ありがとうございました。

   〔九州近畿合同文芸誌『竹の花』 第10号〕

    旧全電通九州・近畿合同文芸サークル

     2008 年日発行

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